向山教授VS悪魔のささやき


 阿久道からの急な呼び出しが入り、雪乃は東府医科大学の向山研究室を訪れた。ノックもしないで阿久道が扉を開けたので、雪乃はひやっとした。


 向山准教授はパソコンのキーボードに右手をおき、もう老眼なのか、眼鏡を額にあげて書類を読んでいる。午後四時前だが太陽が沈みかけていた。窓から射す薄赤い光が反射して、彼の周囲を羽虫のようなホコリが舞っている。


 阿久道が勝手にソファに座ったので、雪乃も少し迷ってから開いたドアをノックして、立ったまま向山を呼んだ。


「向山准教授、すみません」


 彼は聞こえないようだった。

 もう一度、雪乃が呼ぶと書類を見たまま、唇を開けずに「んむ」と生返事のような唸り声をだした。


「向山准教授」と、阿久道が有無を言わせない大きな声で言った。

「なんでしょうか」


 額の眼鏡を降ろして、不機嫌な取り付く島もない声で彼が言った。


「少しお聞きしたいことがある」


 彼はわざとらしく溜め息をつくと、「少し待って」と不満そうに呟いた。それから、十分ほど待たせ、阿久道が座るソファ正面に腰を下ろした。


「なんでしょうか、今日はまた」

「お嬢さんのことだが」と、阿久道が答えた。

「またですか。何なんですか」

「これを見てもらえるか」


 金子博士からもらった麻衣子に関するレポートを渡した。

 表紙に大学名と博士の名前があり、向山は興味を持ったようだ。おやっというように、手に取って中身をめくった。


 阿久道は目を細め、仔細に彼を観察している。かすかな表情の変化、瞳孔の動き、唇や手の様子……。雪乃には変化がわからなかった。しかし、右足が微かに貧乏ゆすりをはじめたのには気付いた。


「それで?」と、彼が言った。

「金子博士の名前は、よく知っていますが」


 阿久道は何も答えない。


「それで」と、彼が少し苛立ったような声で繰り返した。

「それで」と、繰り返し、また繰り返した。

「それで……」


 向山は神経質な様子で眼鏡を外して、再び耳にかけた。

 太陽が落ち部屋が薄暗くなった。蛍光灯の明かりが彼の顔をさらに青ざめて見せている。幽鬼のようだと思ったとき、彼は再び同じ言葉を繰り返した。


「それで」と。

 声が弱かった。「それで……、どうしろと」


 彼が阿久道を正面から見ている。右足の貧乏ゆすりが止まらない。向山が怒りにまかせて阿久道を殴ろうとしている、その表情に緊張した。


 雪乃は柔道の黒帯である。

 このひょろとした男をねじ伏せることは訳ない。また、そうしてみたいという気持ちもあった。痛い目に合わせてやりたいという凶暴な感情が湧いた。


 向山が再び眼鏡を外した。

 いまか、と身体を堅くした。向山の首根っこを取ろうかと思った瞬間、思いもよらない事態が起きた。はじめは何が起きたのか理解できなかった。


 阿久道が椅子から立ち上がっていた。向山の側にひざまずくと、その顔を見上げた。


 向山が静かに泣いているのだ。


「あなたも苦しいのだな」


 あ、阿久道が、阿久道が人を慰めている。そして、さらに驚いたことに向山が素直にうなずいた。


「私は……、私は……、妻を愛していた。しかし、田舎出の私のことを馬鹿にして」と、かすれ声でつぶやいた。

「どうしていいのかわからなかった。妻は……、私を愛してなどいなかった。それは分かっていた。幼いころから、誰も私を……。私は愛されない。変った子としか見てもらえなかった。だから必死で勉強した。私は妻を失わない方法を、これしか思い浮かばなかったのだ。それなのに、あれは死んでしまった」

「卵子は師長のものを使ったね」


 向山は顔を背けると、白衣で目を拭い眼鏡を掛け直した。


「彼女には、あの当時、自分の卵子を冷凍保存しておけば、今後、子どもが産めない年齢になっても困らないと……。三十半ばで結婚を諦めているようで、すぐに卵子提供の承諾をしたので」

「そうか、師長は知らなかった」


 彼はうなずいた。


「しかし、それでも彼女は気付いてしまった。もしかすると、奥さんが自殺未遂したときに」

「どうしてそれを。自殺未遂のことは警察に届けていない」

「知っているのだ」

「そうか……。病室での僕たちの争いを師長が聞いて……、妻が誰の卵子と問い詰めて、それで卵子のことに気付いたようだった」

「しかし、麻衣子さんは厳密には師長の子でもない」

「そうだ」

「しかし、あなたはその間違いを訂正していない」

「そうだ」


 阿久道はそれだけ聞くと立ち上がった。


「師長が、妻を……」

「いや、違う。しかし、……事実を知る事は、もっと辛いかもしれないな」と、阿久道が謎かけのように呟いた。


 雪乃も、その意味を阿久道に問い正したかった。しかし、いつものように、ただ後に従った。外はすでに陽が暮れていた。病院の駐車場へ向かって、しばらく無言で歩いた。


「師長は被害者を殺害していないのでしょうか。これで、ますますわからなくなりました。本当に人は見かけにりませんね」

「それは間違いだ。人は見かけに因るものだ……。違うとすれば、そのプロファイリング自体が最初から間違っているだけだ。わかっていたことだが」

「何をわかってらしたんですか?」

「殺害方法から導きだしたプロファイリングに彼女は一致しない。非常に落ち着きがあり、心が安定している。異常者ではない。むしろ、その正反対で、こんな理由で人を殺すなど考えられない。あるいは……、助けようとして犯人に利用された」

「では、プロファイリング像では、犯人はどういう人物なのでしょうか?」


 阿久道が答えるとは思っていなかったので、驚いた。


「自己中心的で感情的。我がまま、しかし、知的能力は高い。なにかに恐ろしく不満を抱えている。粘着タイプ。自画自賛のなかで自分は天才だと酔っている。他人をみくだす。が、しかし、内心に深く強い劣等感を持ち、激しい怒りを内包している。母親が支配的で過保護な環境で育っているか、あるいは全くの放任か。息がつまり、それを破壊したがっている。幼いころから我慢ができない性格。小さい頃にイジメにあっているか、あるいは、イジメている。医学的知識がある。性的に不能かもしれない。そして、何より死体に慣れている。もしかすると……」


 まるで、向山准教授のようだと雪乃は思った。


 阿久道にしては珍しく饒舌じょうぜつだが、それは他人に話しているのではない。自分自身に向かって確認しているのだと理解した。


(つづく)

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