一ノ瀬圭太は阿久道が苦手だが絡まれている。
「一ノ瀬!」
署に戻るとすぐに低いがよく通る声が飛んできた。
阿久道だ! ここは逃げたいが、くそっ、どうしたらいい……。
条件反射のように逃げる方法を探して一ノ瀬圭太の手に汗が滲んだ。
一ノ瀬は、この課のベテラン巡査部長であり、阿久道より少し下の三十六歳だが年齢よりは老けてみえる
阿久道に見つかったということは、つまり課内は緊急体制って訳だ。
現在、捜査第一課では二種類の状況が存在している。阿久道がいるか、いないか。それは空気に緊張が生じるか、生じないか。あるいは地獄か、天国かとも言い換えられる。
つまり、阿久道がいると、課内は理由もなく全員、非常に忙しかった。
彼は警察庁長官の首根っこを押さえているとも噂があり
「ハッ、警視正」と、一ノ瀬は背筋を伸ばした。
「宜永家について捜査会議の前に状況を説明だ」
「家族全員のアリバイがありそうですが。娘に関しては微妙です。今、裏付けを取っています。しかし」
「しかし?」
「しかし、妙なことを聞きました」
一ノ瀬は
「それで? 遅いことなら亀でもできる」
「被害者には男がいたらしいと」
「そうか」
一ノ瀬はそこで言葉を止めた。阿久道が
「捜査会議の資料を作るなら、二部づつ用意しておけ」
「では、新しい職員に伝えておきます……」
「新しい?」
「昨日から配属された、確か新堂雪乃さんという女性に」
「なにを考えている。新しい職員なぞ配属されておらんわ」
「しかし、一昨日付けで配属になった……」
「花子は花子だ。かわり映えはしない」
そう言葉を残して阿久道は去った。ほっと息をつくと同時に、彼は同僚と顔を見合わせた。
「一ノ瀬さん」
「ああ」
「大変ですね」
「そういうことになったな。全く、どこのどいつが、この管内で殺人事件を起こすなんて、大それたことをしてくれたんだ。お陰で当分は生きた心地がしない」
「ここには阿久道がいるって、少しは犯人にも忖度して欲しいところですが」
「ああ、全くだ。他の管内だったら」
「あの時の……、連続放火魔事件を思い出しますね」
「嫌なことを思い出させるな」
「しかし、あの事件は一ヶ月で解決。警視総監賞ものと言われましたが」
一ノ瀬は首のあたりをかいてから言った。
「それ以上、解決できなければ、俺たち全員が殺されていた」
「ま、まあ、そうですね。今回も阿久道警視正、ぶっ飛んでますからね。彼の興味をかき立てる野郎は、即刻、死刑にしたって罪は軽い。たとえ警視正のことを知らずにやったとしてもね」
「ああ。全くだ、犯人の野郎、もう安心して眠るなんてできないぜ」
「僕たちも、……ですよ」
二人が同時にため息をついた。
一ノ瀬は書類をまとめ、阿久道が帰って来ないうちに、通称地獄部屋に入った。雪乃がパソコンに向かって入力している。その姿は健気で涙を誘うものがあると思った。
「新堂さん」
目をしょぼつかせながら、雪乃が顔を上げた。
「これ……。新しい捜査資料です。警視が渡して欲しいと」
「はい」と、彼女は受け取った。
そして、軽く挨拶すると、すぐにパソコン入力に戻った。
「頑張ってるな」
照れながら優しく声をかけた。
「ありがとうございます」
「まあ、ともかく、彼の下は大変だがね。しかし、勉強にはなる」
「頑張ります」
「知っているかい、例の連続放火魔の事件」
「はい、ここに配属される前に阿久道警視正が解決された事件は目を通しました」
「あれは、捜査に行き詰まって三週間目だったか、警視正が監視カメラの映像を持ち込んで来た。もちろん、放火前後の近くのコンビニにある映像は捜査済みだったが」
「それとは別のですか?」
「そう、犯人の生活圏内と推理した地域すべての駅やコンビニで新聞を買う人間の映像を調べよと言われた。つまり、六回の放火を掲載した新聞を買う人間を特定したんだ。そりゃ、地道な作業でね。しかし、そこである人物が浮かび上がった。それが逮捕のきっかけだよ。まあ、放火後に被疑者が新聞を買うという行動を考えた理由は、我々にはさっぱりだったがね」
「犯人の放火行動様式とプロファイリングの結果だ」と、背後から声がして一ノ瀬は飛び上がった。
「警視正」
「書類はできたか」と、彼を無視して阿久道は雪乃にむかった。
「はい。一部ですが」
「更新」
「はい」
「それから、プロテインジュース」
「はい」
雪乃は阿久道を見て、それから一ノ瀬を振り返った。何も言わずに立ち上がると彼とともに部屋を出た。
「一ノ瀬さん」
「プロテインジュースかい」
「どこで売っているのでしょうか」
「地下の売店へ行って、阿久道特製ジュースって言えば、裏から出してくれるよ」
「ありがとうございます」
彼女は大きな体躯には似合わず走り出て行った。やるな、あの子と一ノ瀬は感心した。それから、同僚に声をかけた。
「汐緒の足取りを追うぞ」
「へ?」
「夜に出ているらしい、自宅近所の聞き込みは誰が担当だったか」
「柏木さんのチームじゃないですか」
「おまえ、ちょっと情報を仕入れてこい」
「待て」と、背後から低い特徴のある例の声がした。
「阿久道警視正……」
「近所の聞き込みでは、誰も彼女の行動を把握していない。夫がいない日のJR駅の監視カメラをチェックしろ。電車に乗車している可能性が高い」
「なぜ駅に」
「当たり前の事実もわからないのか。ボンクラが」
容赦のない声が飛んできた。ここでめげていては阿久道とはやりあえない。それに、彼に悪意はないと一ノ瀬は知っていた。ある種のコミュ障なのだ。
「もし近くで男がいたら噂になっていたはずだ。おばさん連中は、そういう話が好物だ。しかし、全く噂がない。とすれば、遠方のはずだ。自家用車は常に駐車場にあったと証言されている。ならば鉄道を使ったにちがいない」
「行くぞ、相棒」と、一ノ瀬は声をかけた。
「これからですか」
「ああ。これからだ」
その声が終わらない内に阿久道は消えていた。
彼が、また情報という渦のなかで瞑想する姿を一ノ瀬は想像した。犯罪という混沌を旅する僧、いや悪魔だなとひとりごちた。
(つづく)
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