福島

エピローグ

 ——零和十三年、四月某日。


 海が近い。

 車内を吹き抜けていく風に潮の匂いを感じて、巽はそう思った。


 巽運送のトラックは、福島県の沿岸地域を目指して走っている。

 仕事でこの辺りに来るのは約一年ぶりだ。単発で長距離配送の仕事が入り、無事に受け主のところで荷物を下ろして、今はその帰りである。

 普段よりエンジンの駆動が軽やかな気がするのは、何も荷台が空だからというだけではない。


 久しぶりに会える。

 胸の奥がそわそわ騒いでいた。

 あまりに楽しみすぎて、昨夜うまく仮眠が取れなかったのは内緒だ。寝不足によるナチュラルハイもあるかもしれない。


 日光を弾く海を横目に、堤防沿いの道を行く。

 案内看板に従って進んでいくと、やがて目的の公園が見えてきた。

 広い駐車場に、車の姿はほとんどない。あるのはマイクロバスが一台のみ。おかげで大型トラックも難なく駐められた。


 消波ブロックの脇にある階段を下っていけば、楽しげな声が耳に入る。

 穏やかな波打ち際。白っぽい砂浜では、十人ほどの子供たちが遊んでいる。みんなだいたい小学生くらいだろうか。


 その中に、すらりとした女性の姿がある。

 こちらに気付いた彼女が、大きく手を振った。


「巽さん!」


 肩までの黒髪がさらりと風に揺れる。

 不意打ちにやられて、反応が遅れた。どうにか軽く片手を上げる。


「……おう」


 髪、伸ばしたんだ。



 一年前。

 『ふくしま特別研究都市』に戻ったサイカの処遇について、上層部の間でもかなり意見が割れたらしい。

 事の重大さから、厳罰に処すべきとの意見。

 一方で、彼女の父親が名誉理事であることを勘案すべきとの見解。

 彼女を追ったウズマキら特殊警備部のやり方の不味さを指摘する声もあったようだ。


 最終的にサイカには、降格に加え半年分の大幅減給という懲戒処分が与えられた。

 異動はなし。教育スタッフチームに留め置かれたのは、直属の上司が彼女を高く評価し、『サイカ先生』が子供たちにとってどれほど必要な存在かを強く主張してくれたためだ。


 本人が覚悟していたような懲戒解雇にはならなかった。

 恐らく、『街』の管理下に置き続けるか、自主退職の流れに持っていく方が、上層部としても都合が良かったのだろう。


 処罰を受け入れること。

 子供たちの側にいること。

 こうして彼女は、今も『サイカ先生』を続けている。


 ……というのが、巽がサイカとの電話やメッセージのやりとりを通じて知ったことだった。



 子供たちの輪を抜けて、サイカが巽の方へ向かってくる。

 その後ろから駆けてきた一人の男の子が、サイカを追い越して巽に飛び付いた。


「おじさーん!」

「おぉ、アトリ! でかくなったな!」

「うん! もうトラックうんてんできるくらい大きくなった」

「いやー、まだまだだろ」


 以前と変わらない、色素の薄い栗色の髪。好奇心旺盛な碧みがかった瞳は、相変わらずきらきら輝いている。

 だが、前歯が二本ない。よく見れば、歯茎から永久歯がちょこんと顔を出していた。


 追い付いてきたサイカが、アトリの頭をぽんと撫でる。


「アトリ、巽さんに会えるって楽しみにしてたのよ」

「そうか、それは嬉しいな。俺も会いたかった、よっと!」


 アトリを抱え上げる。確かに、記憶にあるより重くなった。


「きょうはねー、えんそくなんだよ! サイカ先生がバスをうんてんしてきたの」

「へぇ?」

「中型免許を取ったの。マイクロバスに子供たちを乗せられるように」

「あっ、あのマイクロバス、そうだったんだ」


 よもやサイカが運転してきたとは思わなかった。


「これからは、時々こうして外に遊びに出ても良いことになったから」

「引率は一人?」

「そう、私も子供たちも、GPSでしっかり管理されてる。しかも一般人のいない時間帯と場所を選んでのことだから、自由とは言い難いけどね」


 アトリがサイカを上目遣いに見る。


「ねぇ、ぼくもバスうんてんしたい」

「大人になったらね」

「えー」


 遠くからアトリを呼ぶ声がした。他の子供たちに手招きされた彼は、巽の腕から飛び降り、駆けていった。そのまま仲間と一緒に浜辺を走り回っている。


「アトリ、元気そうだな」

「えぇ、風邪一つ引かないのよ」

「それは良かった」


 サイカは教え子たちに向けた目を軽く細めた。


「実は今ね、デザイナーベビーのプロジェクトそのものが、ちょっと停滞してるの。技術の安全性は少しずつ高まってきてるんだけど。現在いる子たちの発達状況を見ると、一概に能力を遺伝子操作した子の方が優秀だとは言えなくなってきてて」


 落ち着いた口調ながら、その声には誇らしげな色がある。


「能力の方向性も性格も、誰一人同じじゃない。いろんなタイプの子がいるから、互いに影響し合って新たな力が生まれることもある。あの子たちには将来的に、『街』や関係各所でそれぞれに合う仕事をしてもらう予定よ」

「おぉ、それはいいな。きっとみんな活躍するよ」

「えぇ、楽しみよ」


 びゅう、と強い風が吹き、二人の髪を煽る。

 そこで、何となく会話が途切れた。


 ざ……ざ……

 波の音が、妙な静けさを作り出している。


 手を伸ばせば届く、しかしそうしなければ永久に届かない距離。

 一時は互いにずいぶん盛り上がったが、時間が開くと今さら気恥ずかしい。


 巽は意を決して口を開く。


「えっと……久しぶり」

「そうね」

「髪、長いのも似合うな。可愛い」


 サイカが前方へ視線を固定したまま、唇だけをきゅっと尖らせる。


「そりゃ、髪も伸びるわよ。あれから何ヶ月経ったと思ってるの?」

「あー、えっと、去年の盆休みに会ったっきりだから……八ヶ月くらいですね……」

「忘れたとは言わせないわよ。『明日は明日の風が吹く』」

「はっ……」

「『良い風が吹いたら、また会いにくるよ。前に進むトラックで』」

「うっ……」


 言った。確かに言った。ものすごいドヤ顔決めながら。


「す、すいません……」


 しばらくつんと横顔を見せていたサイカは、やがて小さく吹き出して、くすくす笑い始める。


「大丈夫大丈夫、怒ってない。仕方ないわよ。私はあんまり『街』から出られないし、巽さんも激務だし。年末年始休みは私も実家の方に行っちゃったしね」


 ほっとすると同時に、心が小さく軋む。彼女の声に、諦めのようなものを感じたから。笑顔の向こうに隠れた本心も。

 時間が欲しいと思うのは、巽も同じだ。


「いや、帰省も大事だよ。お姉さんも来てたんだろ?」

「えぇ。ツグミちゃんも、みんな元気よ」

「お姉さんの子供か。それは何よりだな」

「おかげさまでね」


 サイカが淡く微笑んだ。髪型のせいもあるが、以前よりずっと雰囲気が柔らかい。

 オンラインでは繋がっていたが、やはりこうして触れられる距離にいるというのは全然違う。


 改めて実感する。

 この人が好きだ。


 巽はがしがしと頭を掻く。少し辺りを気にしてから、すぐ隣にある細い肩に腕を回そうとした。

 その時。


「おじさーん!」


 慌ててさっと手を引っ込めた。

 アトリが車椅子を押しながら、コンクリートの遊歩道を駆けてくる。

 その車椅子には、子供が一人。


「ほらっ、イカル! おじさんだよ!」


 巽の目の前で車椅子を急停止させたアトリが、弾んだ声で言う。

 サイカが腰に両手をあてた。


「こら、アトリ! 車椅子はゆっくり押す!」

「えへへー」


 歯抜けの笑顔は、全く堪えた様子もない。

 巽は小首を傾げた。


「ん? 今、イカルっつった?」

「うん、イカルだよ! ぼくのふたごのおとうと」


 言われてみれば確かに、座っているのはアトリと同じ色の髪をした男の子だ。だが、一回りほど身体が小さい。手足はひどく痩せていて、白い肌もどこかくすんでいる。

 こちらを見上げる碧みがかった色の瞳だけが、美しくきらめいていた。そこで初めて、顔の作りがアトリとよく似ていることに気付く。


 巽は身を屈め、ちょっと恥ずかしそうにしているイカルと目線を合わせた。


「こんにちは。イカル、話には聞いてるよ」

「あっ……こ、こんにちは。初めまして……」


 蒼白い頬が、ぽうっと紅潮する。


「ぼ、僕も……アトリから、伺いました。トラックの旅や、お子さまランチのこと。あの、お会いできて、とても嬉しいです」

「おぉ……そりゃどうも」


 ぎこちないながらも外見と相反する大人びた口調で、少し驚く。

 その手には、あの小さなトラックのおもちゃ。はにかんだ表情が何とも可愛らしい。

 

 イカルは、の移植手術が成功し、半年ほど前に無事に目を覚ました。現在は歩行などのリハビリ中だと聞いている。


「イカルもはやく! はやくげんきになって! いっしょにトラックのろう!」


 車のおもちゃを握り締めたアトリは、ぴょんぴょん飛び跳ねて興奮状態だ。双子で性格が正反対というのも、よく分かる。


 巽はイカルの頭にぽんと手を乗せた。


「よし、後で乗せてやるよ。少しだけな」

「えっ、本当ですか? やったぁ!」

「やったぁ!」


 くしゃりと笑うと、双子はそっくりの顔になった。



 浜辺で子供たちとはしゃぎ回り、順番にトラックの運転席に上がらせて、あっという間に一時間ほどが経過した。

 疲れ知らずのちびっ子たちが遊び続けるのを、巽とサイカはコンクリートの階段に並び立って眺める。


「もうそろそろ時間だわ」

「そっか」

「ごめんなさい。せっかく寄ってくれたのに、全然ゆっくりできなくて」

「いや、仕事のついでだし、久しぶりに顔見られたからいいよ」


 じいっとサイカに見上げられる。


「私、巽さんのそういうところが好きだけど、それと同じくらい嫌い」

「え? 何? どういうこと?」

「……内緒」


 ぷいと視線を逸らされてしまった。

 髪に隠れた横顔が、何となく寂しげに見える。

 うーん。どうしたものか。


「サイカさん、あとどのくらい時間ある?」

「……十分くらいよ」

「分かった」


 巽はサイカの腰を引き寄せ——


「ほらよっと」


 アトリにしたように、ひょいと抱え上げた。


「え?」

「あれ、ちょっと軽くなった? ちゃんと食ってる? まぁ、サイカさんが食ってねぇってことはねぇか」

「ちょっ、ちょっと!」

「よし、行くぞ!」


 そして、砂浜に向かって駆け出した。

 腕の中のサイカが藻搔く。


「やだっ! もう! 降ろして!」

「こら、じたばたしない! 大人しくしねぇと、このまま連れ去るぞ」


 はっと息を飲む音。サイカはぴたりと暴れるのをやめた。代わりに、巽の首元にぎゅっとしがみ付く。


「……ばか」


 子供たちの元へ辿り着くわずかの時間。細い身体をしっかりと抱き締める。

 温かい、愛おしい、離れ難い。

 でも。


「はい到着! あと少し、思いっきり遊ぼうぜ!」


 教え子たちの中心で、サイカを降ろす。すると、たちまち揉みくちゃにされた。


「サイカ先生ずるーい!」

「ぼくもやって!」

「わたしもー!」

「はいはい、順番な」


 既にかなり体力を消耗していた。

 でも、後のことは後から考えよう。

 これは、今しかない時間だから。


 サイカの方を見やる。頬は少し赤いが、子供たちに目を配る表情には芯がある。

 視線が合った。

 一瞬。ほんの一瞬。

 想いを結ぶように、そっと微笑み合った。




「あー……きっつ……」


 サイカと子供たちを乗せたマイクロバスを見送って、巽は自分のトラックの荷台にもたれかかった。

 四十路の体力を過信してはならない。瞬間的にはパワーが出ても、疲労はずしんと身体に響き、冗談かと思うほど長く後を引く。

 先ほどは「今しかない」などと思ったが、明日、いや明後日訪れるだろう筋肉痛の予感に、早くも後悔し始めていた。


 だが、心はぽかぽかと満たされている。

 もちろんもっと長くサイカと一緒にいられたら良いが、また夏に会う約束をした。

 その日まで頑張って働く理由ができた。


 ぱちんと一つ、両頬を叩く。


「よっし!」


 巽はキャビンに乗り込んで、いつも通りにエンジンをかける。

 行こう。日常はどこまでも続いていく。

 空っぽになった荷台に、明日は何を載せて走ろうか。


 そうしてまた、巽運送のトラックはゆっくりと走り出す。

 春の午後の優しい日差しが、行く先の道を明るく照らしていた。



—トラッカーズ・ハイ 了—






◆◆◆番外編のご案内◆◆◆


本編を読了いただき、誠にありがとうございました。

下記リンク先に番外編がありますので、もしよろしければお読みください。

その後の巽の日常のお話です。約3500字。


『そして明日もまたアクセルを踏む』

https://kakuyomu.jp/works/16816452219048016262

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トラッカーズ・ハイ 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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