第35話 名もなきヒーロー

 ピピピ、ピピピ、ピピピ……

 電子音が鳴っている。窓から漏れる朝の光が眩しい。

 手探りで枕元の端末を探り当て、アラームを止める。


 零和十二年四月二十二日(月)、午前六時。


 気怠さの色濃く残る身体に鞭打ち、巽は半身を起こす。大きな欠伸あくびを一つ。

 昨日はいろいろありすぎた。特に足腰など、まるで重石を乗せられているようだ。


 ちらりと隣に目をやり、ぎょっとする。ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。

 あぁ、そうだった。

 やけに硬く感じる自分の短い髪をがしがし掻き回す。

 巽は床に散らばっていた衣服を身につけ、煙草のケースをポケットに捩じ込むと、そっと宿泊所の部屋を抜け出した。


 まずはトイレへ赴き、洗面台で顔を洗った。

 鏡を見ながら、巽は顎をさする。また無精髭が伸びっぱなしだ。

 この頬の輪郭をなぞった、昨夜の細い指先の感触を不意に思い出す。

 一人でだらしなくニヤニヤして、背後を通る人の気配にはっとする。口元を引き締め、両頬をぺしぺしと叩いた。


 その足で、今度は喫煙所へと向かう。

 今日もいい天気になりそうだ。まだ空気はひんやりとしている。

 貸し切り状態のブースで一服しながら、巽はのんびり外を眺めた。

 見慣れた景色のはずだが、いつもと違って見える。


 出立の朝だ。今日で一つの仕事が終わる。しかし、悲壮感はなかった。その先も続いていく道が、確かにある。

 ちょうど、卒業式の朝がこんな感じだったかもしれない。先が見えない不安を抱えつつも、未来に光を期待するような。


 喫煙所を出て戻る途中、サイカと行き合った。ほっそりした肢体は、すっかりロングコートに包まれている。

 巽はもぞもぞしながら挨拶した。


「おっ……おはよ」

「おはよう、巽さん。お腹空いたわ。先に行ってるわよ」

「あ、あぁ……」


 サイカはクールに告げると、迷いのない足取りで売店の方へと歩いていった。

 その颯爽とした後ろ姿を見つめながら、巽はぽつりと零す。


「……ギャップがすごいな」



 六時四十五分。巽運送のトラックは、サービスエリアを出発した。

 普段通りの運転操作。呼吸をするように、何の造作もない。

 東北高速道下り線は順調に流れている。この時間帯は、やはり同業者の車が多い。

 四日ぶりの道。ほんの四日前には、まだサイカと出会っていなかったのだ。そう思うと、不思議な気分だった。


 助手席に座るサイカとの間には、一人分の空席がある。

 少し広く感じるキャビンの中、会話は決して多くない。しかし気まずさはなく、むしろこの空間を満たす沈黙を心地よいとすら思えた。


 時おり、ちらちらと視線を感じた。


「ん? 何?」

「ううん、ずぅっと前見てるなと思って」

「そりゃそうだよ。高速なんて前に行くしかねぇもん」

「うん、それは知ってるけど」


 他愛もないやりとり。腹の辺りがふわふわして、何となくくすぐったい。

 だがその向こうには、無視しきれない小さな痛みがある。

 残された時間は、あとわずかだ。


 二人を乗せたトラックは、止まることなく前へと進み続ける。

 二時間が、驚くほどあっという間に過ぎた。そのうちだんだんと、周囲に車の姿が少なくなってくる。

 やがて、目的地の最寄りの出口を示す看板が目に入った。高速を降りてしまえば、旅のゴールまでもう少しだ。


 料金所を通過したトラックは、人の気配の薄いエリアを走っていく。

 打ち捨てられた住宅街のさなか、覚えのある地点に差しかかった。

 あの時、路肩で立ち往生していた、サイカの自動運転車両オートライドが見当たらない。


「あの車、『街』に回収されたんかな」

「たぶんそうね」


 国家機密を守る都市。

 『街』との運送契約が切れてしまったら、彼女と繋がるものは跡形もなくなってしまうだろう。


 とうとう、『ふくしま特別研究都市』の案内表示がある地点までやってきた。

 最後の信号は赤を示している。

 巽は減速のためギアを入れ替え、車を止めた。


 その時、シフトレバーを操作する大きな手に、ほっそりした白い手が重なった。

 柔らかな感触。ふわりと漂う香り。

 気付けばサイカが、すぐ隣に身を寄せていた。


 途端、胸の奥が、堪らなく締め付けられる。

 息が苦しい。

 その刹那、柄にもなく。

 呼吸の仕方を、思い出せなくてもいいと思った。


 サイカの手を、自分のそれと入れ替える。

 シフトノブを、彼女の手ごと握る。

 絡んだ指先に熱。

 信号が青に変わるまでの一瞬、動きを止めた空間の中、視線を交わした彼女の。

 その、澄んだ光を宿した瞳を、自分はきっと忘れられないだろう。


 赤色が消え、青色が灯る。

 前へ、進まなくてはならない。

 巽は再び、慣れた動作でトラックを発進させる。巨大な車体は、呆気ないほど簡単に交差点を渡ってしまった。


 いよいよ、施設をぐるりと囲う高い塀が見えてくる。

 正面口を横目に、いつも通り裏の搬入口へと回る。

 淀みなく開かれるゲートを通過し、緩やかなスロープを下り、荷下ろし場所にトラックを寄せる。


「着いたよ」

「えぇ」


 交わす言葉は短い。

 巽はサイカと共に車外に出て、インターホンを鳴らした。


『はい』

「どうも、巽運送です。今回分、お持ちしました」


 腕時計型端末から納品書データを送信する。


「それから彼女も」


 身体をずらし、カメラモニターにサイカの姿を見せる。

 ややあって、スピーカーから返答がある。


『ありがとうございます。今リフトを向かわせます。久梨原さんに関しては、迎えをそちらに寄越しますので、少々お待ちください』

「分かりました」


 数秒も経たぬうちに作業場の奥手から自律運転のフォークリフトがやってくるので、巽は荷台のウイングを上げた。


 荷下ろし作業の間、二人は並び立ってその様子を眺めていた。

 巽はちらりと隣を窺う。白い横顔が、ぴんと張り詰めて見える。

 そっと彼女の手を取った。それを、確かな力で握り返される。

 リフトが自動で良かった。そうでなければ、別れを惜しむ暇もなかっただろう。

 荷台の上のパレットが、一つ二つと数を減らしていく。


「巽さん」

「ん?」


 至近距離から見上げてくるサイカの表情は自然で柔らかい。つい、離れがたいと感じてしまう。


「ここまで、本当にありがとう。巽さんがいなかったら、戻ってこられなかったと思う」

「いや、考えてみたら結局、配送ついでに行き戻り乗せただけなんだよな。全然大したことしてねぇよ」

「そうじゃなくて……」


 サイカは何かを言いかけて、首を振って軽く笑った。


「そういうところよ」


 フォークリフトが全ての荷物を下ろし切る。

 時を同じくして奥の扉が開かれ、二名の人物が顔を出す。初老の男性と、巽の家にも来ていた若い女性だ。


 繋いだ手が、音もなく離れた。


「直属の上司と、後輩よ」

「良かった。ここでまたダークスーツの連中が現れたら、もう一回逃げなきゃなんねぇとこだったな」

「それも良かったかも」

「え?」

「……冗談よ、ごめんなさい」


 色白の頬が、心なしか紅潮する。黒目がちの大きな瞳が、まっすぐ巽を見つめる。


「ねぇ、また会える?」


 映画の中から出てきたような美女が、映画のような台詞を言った。

 だが、目の前にいる彼女は、決して手の届かない虚像などではない。

 クールに見えて心根が優しく、細身なのに大飯食らい。温かな血の通った、久梨原クリハラ 才華サイカという一人の人間だ。


 次はいつだと、確かな約束はできない。

 進むべき道は、ここから別々なのだから。


「もちろん」


 巽は姿勢を正し、可能な限り凛々しい顔を作った。


「俺は長距離ドライバーだ。何を運ぶのか、どこを走るのか、いつも風向き次第だよ。明日は明日の風が吹く、ってな」

「……えぇ」


 サイカがわずかに表情を固めた。それに構わず続ける。


「良い風が吹いたら、また会いにくるよ。前に進むトラックで」


 間。


 サイカは、どうともつかない曖昧な顔で、赤い唇をほんの小さく動かした。


「うわ……もう、そこは普通で良かったのに」

「うわって……」


 マジか……


 虚無の視線が痛い。頬に熱が上った。

 恥ずかしい。これは相当恥ずかしい。

 前も一度やらかしたはずだ。なぜ同じ過ちを繰り返してしまったのか。


 サイカがくすくすと笑った。


「ありがとう、私も頑張る。また連絡するわ。そろそろ行かなきゃ」

「あ、あぁ……」


 すっと伸びた背筋。理知的な笑みをたたえる口元。

 彼女はもう、『サイカ先生』に戻っていた。


「じゃあ、また」

「あぁ、また」


 踵を返したサイカは、迷うことなく進んでいく。

 彼女の戦場へ、向かっていく。

 その後ろ姿を眺めて、巽は唐突に思い出した。


「サイカさん!」


 艶やかなショートヘアをさらりと揺らし、サイカが振り返る。

 巽は躊躇なく距離を詰める。

 上着のポケットに入れていたものを取り出し、『サイカ先生』たる彼女に手渡す。


 それは、トラックと乗用車の小さなおもちゃ——アトリが大事に持っていた、お子さまランチのおまけだった。


「アトリに伝えてくれ。またいつか一緒にトラック乗ろうって」


 あの子と出会ったのは、映画に出てくるヒーローなんかじゃない。ただのトラックドライバーだ。


 驚いて見開かれた瞳が細められる。白い掌が、二つの宝物をそっと握る。


「分かった。伝えるわ、必ず」


 そしてまた、彼女は少しずつ遠ざかっていく。

 出入り口まで行き着き、職場の仲間と二言三言を交わし。

 最後に、巽に向かって深く深く頭を下げた。


 ドアが閉まった音の余韻も消え去ると、辺りはしんと静まり返る。

 巽はもう一度インターホンを押した。


『はい』

「どうも、荷下ろし完了しました」

『赤外線チェックします……はい、確かに。問題ありません』


 腕時計型端末がピッと反応し、受領印の入った納品書データが返ってくる。


『ご苦労さまです』


 いつもと同じ、感情の見えない声。それでも、これで終わりなのだ。

 巽は先ほどのサイカを真似て、モニターの前で丁寧に一礼した。


「ありがとうございました!」




 通い慣れた道を、巽運送のトラックは駆けていく。

 空から降り注ぐ日差しは暖かく、目に映る緑は鮮やかで、窓を吹き抜ける風は清々しい。


 静かだった。

 自分一人のキャビンを、ずいぶん広く感じる。

 何のことはない。日常に戻っただけだ。


 巽は煙草に火を点けた。一口目を胸の奥深くまで吸い込み、一気に吐き出す。

 その煙は窓から外へ出て、あっという間に後ろへと流れていく。


 いつものように、ギヤチェンジする。

 やけに身軽になった相棒は、高速道へ繋がるランプウェイを力強く登っていった。

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