第34話 働く者たちの矜恃

 一発の銃声が、場の空気を切り裂いた。

 長閑のどかな日曜の夕暮れ時には不似合いな、風情も何もない、ただ耳をつんざくだけの破裂音が。


 巽は固く目を瞑っていた。

 ここで死ぬのだとしても、痛いのだけは勘弁してほしい。

 だが。


「……あれ?」


 何も来ない。


 恐る恐る、瞼を開ける。

 顔を上げれば、右手を押さえて膝をつき、苦悶の表情を浮かべるウズマキの姿が目に入る。

 いったい何が起きたのか。


「そこまでよ」


 涼やかな声が、辺りに凛と響いた。

 自然とそちらに視線を引き寄せられる。


 すらりとした手足によく似合う、淡いベージュのロングコート。

 風になびく、ハンサムショートの艶やかな黒髪。

 大きな瞳に強い光をたたえた、赤い唇の美女。


「サイカさん……!」


 澄んだ斜陽の照らす中、銃を構えて敷地の入り口に立っていたのは、久梨原クリハラ 才華サイカその人だった。


「これ以上、巽さんに手出しはさせない」

「えっ……」


 トゥンク……

 高鳴る胸。

 巽の目に、その姿はまるでスーパーヒーローのように映った。


 サイカはウズマキに狙いを定めたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。


「そろそろ連絡が来るころじゃないかしら」


 はたしてその予言通り、ウズマキの端末が着信を告げた。彼は自由が効かないらしい右手をどうにか動かし、通話ボタンをタップする。

 巽はそこでようやく、サイカがウズマキの銃を撃ち飛ばしたのだと理解する。きっとそれで手首か指かを痛めたのだ。


「ウズマキです。……はい……そうですか……了解しました」


 表情ひとつ変えず、抑揚のない声で応対を終了したウズマキは、やはり平坦なトーンで言った。


「我々の今回の仕事は、これで終わりです」

「えっ? どういうこと?」


 巽は二人の顔を見比べる。

 ウズマキは既に肩の力を抜いた様子だが、一方のサイカは未だ油断なく相手を見据えている。


「巽さんに機密を漏らしたのは私。だから、巽さんに関する後始末は私の父である久梨原名誉理事が責任を持って行う、ということになった。……間に合って良かったわ」

「あ、そうなんだ……?」


 とりあえず命は助かったらしい。


「ん? てことは俺、サイカさんのお父さんに始末されるの?」

「あなたは私の恩人よ。今回の件で発生した損害とか、事故のこととか、全部うちで持つから。そうなれば巽さんも、余計な危険を冒して機密を漏らすようなことはしないでしょ?」

「いや、元からそのつもりだけど……いいの?」

「いいも悪いも、『街』としては金銭で収めたって事実があった方がいいのよ。ただの口約束じゃなくて」

「ほー……」


 そういうことか。


「あ、そうだ。アトリはどうなった?」

「アトリなら無事よ、もう大丈夫。身の保証を約束してもらったから」

「おぉ、それは良かったな。それで、サイカさんは大丈夫?」


 サイカは小首を傾げる。


「ん?」

「いや、電話くれただろ。何かあったのかと思ってさ」

「は……?」


 長い睫毛が何度もぱちぱちと瞬かれ、形の良い唇は何か言いたげにぱくぱく動く。


「……もうっ! あなたのことが心配だったのよ!」

「え?」

「あっ! 腕、怪我してるじゃない」

「ちょっと掠っただけだよ。こんなん大したことねぇって」

「大したことあるわよ、もう……」


 眉間に皺を寄せたサイカは、ウズマキを横目にして言った。


「巽さんがお金を受け取らなかったから、口を封じようとしたんでしょう。でも住宅街の中で騒ぎを起こすのは不味いし、あの時はアトリのことが最優先だったから、のしやすい管理地内で処理することにした。こんな中継地点で彼を襲ったのは、私が『街』に近づくのを警戒したから。ここで私のことも始末できれば上等。そんなところでしょ?」

「さすがですね。その通りです」

「あー……なるほどね」


 だからサイカの居所を訊ねられたのだ。

 しかし。


「……てことは、そのヘタクソのおっさんに、ここから『街』まで運転させるつもりだったってこと? 俺の車を? 俺の代わりに?」

「えぇ。物資は必要ですから」

「はぁ? 何だよそれ」


 ウズマキの慇懃な態度に、忘れかけていた言いようのない苛立ちが湧いてくる。

 巽は鷹揚に立ち上がり、大きく息をつくと、運転席のドアをノックした。


「降りろ」


 キャビンの中からおろおろと様子を見守っていた男が、慌てて降りてくる。


「こいつ、クラッチに癖があるんだよ。さっきみたいにエンジンがかかりにくい時もある。そもそもあんた、免許持ってても大型トラックなんてロクに運転したことねぇんだろ」

「は、はい……」


 確かにこれは、荷物を運ぶだけの簡単な業務かもしれない。代わりは他にいくらでもいるだろう。

 誰かがやらなきゃならない役割に、たまたま条件が当て嵌まったから、仕事をもらっただけだ。

 しかし。


「荷物はパレット積みで重量がある。ちょっとでも急制動したら、簡単に荷崩れする。大事な物資なんだろ?」


 巽は男二人を順に睨み据え、腹の底から言い放つ。


運送屋トラッカーなめんなよ」


 自分はプロなのだ。


「上に伝えとけ。お客さまの荷物は、巽運送が責任を持ってお届けしますってな」

「……承知しました」


 ウズマキが無感情に応えた。自分の職務外のことは興味がないらしい。

 サイカのなよやかな手が、巽の肩に触れる。


「じゃあ、ついでに私からも伝言をお願い。私も『街』へ戻る。巽さんに乗せていってもらうわ。一連の件に対する処罰なら、正々堂々いくらでも受ける。そう伝えて」

「……承知しました」


 少し驚いて顔を向けると、どこかすっきりした表情の彼女と目が合った。


「前に進むトラックに乗って行きたいの。いいでしょ?」


 やるべきことを果たそうとする瞳だった。大丈夫かと、問う必要はなさそうだ。

 だとしたら、答えは決まっている。


「あぁ、お安いご用だよ」




 今晩も車中泊だ。『ふくしま特別研究都市』への配送の前は、毎回そうする。

 普段のように巽一人であればどこでも良かったが、今日はサイカが一緒なので宿泊施設のあるサービスエリアを選んだ。


 深夜十一時。

 コインシャワーで汗を流した巽は、喫煙所で就寝前の一服をしていた。時刻が時刻だけに、他に利用者はいない。

 長い一日だった。身体的疲労はすごいが、頭は妙に冴えている。

 二日半前にサイカやアトリと北九州で別れた時にも、「こんな出来事は二度とあるまい」と思ったはずだ。だがそれも、今日一日であっさり塗り替えられた。

 改めて思う。こんな出来事、もう二度とないだろう。


 一本目を半ばほどまで吸った辺りで、喫煙所の扉が開いた。

 サイカだ。


「やっぱり、ここにいたのね」

「おう」


 髪が濡れているように見える。彼女もシャワーを浴びてきた後らしい。

 巽は煙草を差し出す。


「いる?」

「今日はやめとくわ、ありがとう」


 じゃあ、なぜこのスペースに入ってきたのか。それを訊くのは野暮だろう。

 出会ったのがほんの数日前とは信じられないほど、いろいろあった。彼女と一緒に過ごすのも、あと少しだ。


 サイカは巽と横並びに立った。何となく近い。腕が触れてしまいそうな距離だ。


「怪我、大丈夫?」

「あぁ、うん、おかげさまで。血も止まってるし」


 弾の掠った右の上腕は、ドラッグストアで調達したガーゼと包帯で簡易な手当てが施されている。サイカがやってくれた。


「でも、ちゃんと病院行ってね。バイ菌とか入るといけないから」

「そうだな、明日にでも行くよ」


 明日。彼女を送って行った後に、ということだ。

 不意に静寂が訪れる。煙草を一口、そして二口。巽が三口目を吸い込む前に、サイカが沈黙を破った。


「同じ教育チームの後輩と連絡が取れたの。アトリ、検査したけど特に異状なしだそうよ。一時的に強いストレスを受けて、突発性の胸の痛みが起こったんじゃないかって。気丈に見えても、不安で怖かったのね。悪いことをしたわ」

「でも、それなら良かったよ。本当に」


 正直、自分の命が助かった時よりも、ずっと胸が温かくなった。

 アトリはこの先も生きられる。その事実が、心から嬉しいと思う。


 いくつか躊躇うような間の後で、サイカが控えめに言った。


「巽さん、少し、話を聞いてもらっていいかしら」

「ん? そりゃ、もちろん」


 ふっと空気の緩む気配がある。


「私ね、ずっと考えてたの。イカルのことも、どうにかして助けられないかって」

「あぁ……」

「アトリの心臓を移植できないなら、イカルは……」


 当初の計画が潰えたら、イカルを生かしておく理由がなくなってしまう。


「可能性は、なくはないと思うのよ。『街』としても、実験体をわざわざ延命したことを無駄にはしたくないはずだから。何か別の方法で、イカルを生かす道があるなら……」


 でも、とサイカは俯く。


「例え一命を取り留めたとして、それはイカルにとって幸せなことなのかしら。これまでも、イカルは……幸せだったのかしら」


 白い横顔を隠す、頬にかかる髪が揺れた。


「今になって思うのよ。もっと遊んであげれば良かった。もっと抱っこしてあげれば良かった。そんな想いばっかり、後から後から湧いてきて止まらなくなる。どうして元気な時には考えも付かなかったんだろう。もう手遅れかもしれないって時になってようやく、こんなふうに思うなんて。もっと、あの子の笑った顔を見られたら良かったのにって……」


 震えた声が途切れる。すん、と一つ、洟をすする音。


「……ごめんなさい」

「いや、よく分かるよ」


 巽自身、その後悔をどれほど繰り返したか、もはや数え切れない。

 煙草の先でじりりと伸びる灰。巽はそれを一度、とん、と落とす。

 そして、にぃっと笑って見せる。


「可能性があるなら、信じようぜ。きっとまたイカルを笑わせてやれるよ。大丈夫。サイカさんは、守りたいものを守れる人だ。ほら、俺のことも守ってくれたし」


 サイカは唇の両端をほんの小さく上げた。じっと見上げてくる瞳が、たっぷり潤んでいる。その奥にあるのは、確かな光だ。


「私ね、『街』へ戻ったら、やりたいことがあるの。自分のやるべきだと思うことが。研究所にいるの可能性を伸ばしてあげたい。人工的に与えられたものだけじゃない、その子自身が持って生まれたものを。それができるなら、リスクを伴う遺伝子操作なんて必要ないはずだから。みんな、大事な子よ」


 そこで、サイカは一つ息をついた。長い睫毛がそっと伏せられ、一雫の涙が音もなく頬を滑り落ちる。


「だけどそんなの関係なく、解雇ってことになるかもしれない。もうここにお前の居場所はない、お前にできることは一つもない、そう言われるんじゃないかって……それが怖いのよ」


 きっと処罰が怖いわけじゃない。

 自分のしたいことを果たせなくなってしまうことこそ、怖いのだ。


 無理やりトーンアップしたような声が、後に続く。


「ねぇ、クビになったら、巽さんに雇ってもらおうかな……」

「いやいや、そんなことにはならない方が絶対いいって。こんなにやる気があって、一番に子供たちのことを考えてる人をクビにするなら、国の未来を作る組織としてはもう駄目だろ。きっと大丈夫! ……だと思いたいよな」


 サイカは口元に微かな笑みを残したまま小さく頷き、視線を下げた。細い肩が、とん、と巽の腕にぶつかる。


「巽さんが誘ってくれた時ね、すごく嬉しかったの。本当に、嬉しかったのよ」


 頭が、肩にもたせかけられる。ふわりと甘い匂いがした。


「ごめんなさい、ありがとう。大丈夫、明日はちゃんと前へ進むから……」


 今夜だけは、と。

 消え入りざまの吐息が、そう紡いだように聞こえた。

 触れ合ったところに、緩い熱を感じる。


 静かな夜だった。

 ただ二人の鼓動だけが、重なるように寄り添っていた。

 巽は音を立てないように、短くなった煙草を灰皿の底へと落とした。

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