北九州〜名古屋

第17話 一人ラーメンと、日常からの揺り戻し

 サイカとアトリを九慈大学病院で降ろした巽は、午前十一時すぎには博多にある機械工場に到着した。

 事務所を覗くと、顔見知りの総務のおばちゃんが気さくに声をかけてくる。


「あれぇ、お久し振りです。珍しかね、社長さん自ら」

「どうも、ご無沙汰してます。今日ちょっと小谷が休みなんで、代わりに私が参りました。すいませんね、次からまたフレッシュな若者を寄越しますんで」

「やだぁ、社長さん男前やけん、いくらでも来てください」


 そこでふと、自分の身だしなみのことが気にかかる。どさくさで完全に失念していたが、無精髭が伸びっぱなしだ。

 世辞を適当に躱し、世間話もそこそこにして、巽は作業に入った。


 工場の搬出口にトラックを付け、端末で表示した納品書を見ながら荷物を確認する。

 荷台に積んであるのは、繰り返し使用が可能なスチール製の通い箱。コンテナ型で積み上げ可能、土台部分はパレット状という優れ物だ。


 巽は工場のフォークリフトを借りて、荷下ろしを開始した。

 通い箱の土台の穴に差し込んだ二本の爪を軽く上向きにティルトし、持ち上げる。周囲を確認しながらリフトを走らせて、荷物を指定の場所に並べ置いていく。

 慣れた作業だ。正確な操作でいつも通りの手順を踏み、予定に沿って事が進む。


 そう、これこそが日常なのだ。

 未だ胸の中に一抹の淋しさはあったが、それも間もなく日々の流れの中に紛れてしまうだろう。

 何だかんだで、身の丈に合った平穏が一番である。

 そのうち、あの浮世離れした二人との出来事を、夢か何かだったのではと思う日も来るかもしれない。

 アトリの成長した姿は見てみたい気もするが。


 あれだけの激しい運転をしたにも関わらず、通い箱自体に荷崩れはなかった。

 荷物の中身はネジや金具などだ。目には見えなくとも、衝撃で傷が付いている可能性は大いにある。


「すいません、ちょっと今回、急ブレーキとか多かったんで……また連絡もらえます?」

「分かりました。検品して、破損分はご連絡します」


 工場の担当者には正直に申告した。

 輸送中に起きた貨物の損害は、運送業者が賠償するのがルールである。


 荷台の右側後方には、やはり傷が残っていた。高速道路の中央分離帯に擦った箇所だ。さすがにこのまま放置するわけにもいかない。

 あの時かなり車体が横揺れしたから、タイヤの空気圧やサスペンションの調子も確認した方がいい。今のところ不具合はないが、長距離輸送の車にとって不安な点は潰しておきたい。


 帰ったら、知り合いの板金屋で見積もりを取ろう。

 トラックに付いた痕跡を消して、何事もなかった日々にすっかり戻るのだ。

 これは、前に進むトラックなのだから。



 荷下ろしを終え、事務所でお茶を一杯いただいて、出発したのが正午すぎ。後は名古屋に帰るだけだ。

 バイパスを北上していくと、豚骨ラーメン店の看板が目に入る。

 途端、ぐるるる、と腹の虫が鳴った。


 サイカやアトリと朝食を摂ったのが、ずいぶん前のことのように思える。あの時サイカに「巽さんも私と同じくらい食べる」と言われたことを思い出し、今さらじわじわ可笑しくなってくる。

 そう、結構しっかり食べたはずなのに。普段と比べて空腹感が尋常じゃない。尋常じゃないことがいろいろあったせいで、普段よりエネルギーを消耗したに違いなかった。


 一旦ラーメンのことを考え始めたら、頭の中がラーメンでいっぱいになってしまうのが人間のさがというものである。

 巽は、バイパス沿いにあるラーメン屋のうち、駐車場の広い店を選んで入った。

 平日とはいえ、ちょうど飯時。店は混雑しており、玄関の外にまで順番待ちの客がいた。その多くが巽と同じような、仕事着のまま一人で来ている男性客だ。

 それゆえ、行列はできていても回転は早い。並び始めて十五分も経つころには、巽は一人用のカウンター席に案内された。


「ラーメンと半チャーハンと餃子」

「はいーラーメン半チャー餃子でー! 麺の硬さはいかがいたしましょう!」

「ばりかた」

「かしこまりましたーお待ちください!」


 頭にタオルを巻いた声のでかい男性店員が、カウンター内へ向けて巽の注文を繰り返す。

 店内は絶えずガヤガヤしていた。その中に客の会話はほとんど混じらない。

 店員同士のやりとりの声、鉄鍋がお玉で掻き回される音、気合いの入った麺の湯切り音。

 そんな『仕事の音』で満たされた空間を、巽は心地よく感じる。


 十分ほどで、注文したものが運ばれてきた。

 白く濁ったスープに浸かった、真っ直ぐの細麺。一本一本、薄く表面が透け、芯が残されているのが分かる。

 その上に乗っているのは、厚切りの焼豚二枚、小葱、紅生姜、きくらげ、そして半分に切られた燻製玉子。

 白、緑、赤、黒、黄と、目にも鮮やかだ。立ち昇る湯気が何とも食欲をそそる。


 巽はさっと箸を割り、まずは豪快に一口目を啜った。硬さの残る麺を咀嚼すると、コクのあるまろやかなスープの旨みが口じゅうに拡がっていく。

 こってりした豚骨出汁の塩気に、紅生姜の酸味ときくらげの歯ごたえが絶妙に合う。焼豚と玉子には、よく味が染みていた。

 あっという間に一杯目を平らげた巽は、カウンター越しに店員を呼ぶ。


「すいません! 替え玉! ばりかたで!」

「はいーかしこまりましたー!」


 替え玉を待つ間、チャーハンと餃子に取りかかる。

 ここのチャーハンは胡椒が効いている。パラパラによく炒めてあり、細かく刻まれた焼豚が入っていた。

 餃子はまだ熱々で、危うく舌を火傷しかけた。カリッとした皮から、たっぷりの肉汁が溢れて出してくる。ニンニクがガツンときて、ビールが欲しくなる味だ。


 チャーハンがなくなるころ、替え玉がやってくる。それをすぐさま丼に入れ、スープによく絡める。葱や生姜もレンゲで掬いながら、どんどん腹の中へと収めていく。

 更にもう一回の替え玉を追加して、巽はようやく満腹になった。

 スープを飲み干せば、丼の底には『ありがとう!』の文字。思わずにやりとしてしまう。


 あぁ、よく食った。

 会計を終えて外へ出ると、時刻は午後一時。真昼の日差しが強い。ラーメンを食べた直後ということもあり、汗ばむくらいの陽気だ。

 巽はトラックに乗り込んでから、作業着の上を脱いでTシャツ一枚になった。


 煙草をふかしつつ、車を発進させる。

 そろそろ給油した方がいい。高速に乗る前に、インター手前にあるガソリンスタンドに立ち寄った。

 セルフの給油も、ほとんど勝手に身体が動く。三五〇リットルの燃料タンクがいっぱいになるまで、辛抱強く待つ。

 いつも割と、こういう時間に睡魔が襲ってくることが多い。それは今日も例外ではなかった。体力には自信があるが、さすがに少し疲れた。


 給油が終わり、運転席に戻ってエンジンをかけた、その時だった。

 突然、巽の腕時計型端末に着信が入った。

 思わずびくりとして、一瞬で眠気が吹き飛ぶ。

 表示を見れば、知らない番号からだ。人差し指の爪の先で通話ボタンに触れ、端末を耳に寄せた。


「はい?」


 回線は繋がったが、応答しても返事がない。


「もしもし?」

『あの……巽さん、ですか?』

「はい、巽です」


 女性の声。

 彼女だ、と思った。

 呼びかけようとして、ふと言葉に詰まる。

 彼女、苗字って何だっけ? まぁいいか。


「サイカさん?」


 やはり、無言。しかし、エンジンの重低音が響く車内でも、電話の向こうの相手が浅い呼吸を繰り返しているのが何となく分かった。


「サイカさんだろ? どうしたの。何かあった?」

『あ、あの……』


 様子がおかしい。


「大丈夫?」

『……巽さん』

「うん」


 あまりにもか細いその声が、震えながら紡ぐ。


『……助けて』

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