第16話 別れの時
先ほどより車の数が増えた道を、流れに乗って走行する。トラックは既に本州と九州を結ぶ海峡大橋に差しかかっている。
巽はごく普通に運転できる平穏のありがたさを噛み締めていた。何でもないようなことが幸せだと思う。二度とは戻りたくない、あんな状況。
カーチェイスの直前にあった会社からの着信を折り返した巽は、事務員からこんな話を聞いた。
『今朝早く、どなたか男性から、社長と連絡を取りたいとお電話がありまして。博多方面へ配送に行ってるからすぐには帰ってこないとお伝えはしたんですが、何だかお急ぎのような感じでした』
履歴に残っていたという番号を伝えられたが、かけ直すまでもないだろう。
間違いなく連中だ。
「やっぱり、それで先回りされてたんかな」
「私が頼れる相手は限られてる。研究所を辞めた姉の居場所を、あの人たちは知ってる。巽さんの行き先を確認して、私たちがこのトラックに乗ってることを確信したから、あそこで待ち伏せしてたんだわ」
だとすると。
「この先も待ち伏せされてるってことは? もうすぐ高速降りるし、さすがに市街地じゃあんなふうには追ってこねぇと思うけど」
「どうかしら。もう追っ手が来ないことを祈るしかないわ」
サイカは、シートの真ん中で硬直したままのアトリをそっと抱き寄せた。
「アトリ、大丈夫? ごめんね、怖かったわね」
「こわかった……」
「安心して、もう悪い人たちは——」
「サイカせんせいが……」
巽は思わず吹き出してしまった。確かに、と内心で同意する。
「そうよね、ごめんなさい。ほら、いつものサイカ先生に戻ったわ。もう大丈夫」
笑みを含んだ、甘やかな声。やっと顔を上げたアトリは、きゅっとサイカにしがみついた。
淡い栗色の髪を優しく撫でる彼女を横目にして、巽はずっと頭にあった疑問を口にしてみる。
「なぁ、一個訊いていい? あんた、なんでそんなに銃の扱いに慣れてんの? 趣味で免許取るってどんなだよ」
「学生時代、クレー射撃部だったの。インカレにも出た。ピストル射撃は社会人になってから始めたんだけどね。一応、選手登録もしてるし、実弾射撃場にも通ってるのよ」
「へぇ、ちょっと面白そう」
「楽しいわよ。狙いさえ上手く定めれば、ちゃんと目標を撃ち抜けるんだから」
何か怖い。サイカに狙われて、撃ち抜かれずにいられる自信がない。いろんな意味で。
不意に、細い指が巽のこめかみに伸びてきた。
「ごめんなさい。どんな状況であっても、絶対に人に向けるべきじゃなかったのに」
「いや、まぁ……でも撃つ気ないのは分かったし」
「しかも二度目よね。最初の時と、さっきと」
「んー……ああするしかなかったんだろ、分かってるからいいよ、うん……」
歯切れ悪くもごもご応える。触れられたところがくすぐったい。一度は落ち着いたはずの心臓がまたそわそわと足を早めている。
サイカは巽に向き直り、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、こんな酷いことになるなんて。荷台、壁に擦ったわよね。修理代とか、何でも弁償するわ。スピード違反のことも……。巽さんの今後の仕事にも影響が出るかもしれない。本当にごめんなさい。『街』から何か聞かれたら、全部私に脅されたせいだって言ってね」
「あぁ、いいよいいよ、そんなに謝んなくても」
巽はひらひらと片手を振った。
「予期せぬトラブルなんて、どんなことしてたって起きる時ゃ起きる。あの『街』への配送契約はなくなるかもしんねぇけど、運送屋やってたらポカして仕事切られることなんかごまんとあるよ。自分でやるって決めてやったことだから、その責任は自分で持つ。幸い、社長は俺だし」
小っこい会社だけどな、と自ら混ぜ返す。
「修理代とかも、擦っただけだしきっと大したことねぇよ。まぁ、違反的なことはさ、赤い切符が来たらもうその時だ。命さえあれば大抵のことは何とかなる。だから、俺のことは大丈夫だ」
そう言って、ニッと笑って見せた。
わずかの間の後、控えめな声が耳に届く。
「……ありがとう」
気付けば橋は終わり、既に北九州市内に入っていた。
「念のため、姉に連絡を取ってみるわ」
サイカは腕時計型端末を操作して、電話をかける。
「もしもし、姉さん? 今、電話大丈夫? 何か変わったことはなかった?」
微かに漏れ聞こえるのは、落ち着いた女性の声だ。
サイカはこれまでの経緯を簡単に説明した。
「実はついさっきまで、『街』の警備部の人たちに追いかけ回されてたんだけど……」
いくつかのやりとりの後、その口調が和らぐ。
「そう、それなら良かった……うん、私は大丈夫。もうすぐそっちに着くわ。じゃあ、また後で」
通話が終わり、安堵の色の灯った瞳がこちらに向いた。
「姉には、『街』からの接触はないそうよ。大きな病院で警備員も多いから、おかしな連中がうろついてたらすぐ分かる。でも今のところ、そんなこともないみたい。ひとまず入院って形にしてもらえば、守秘義務があるから部外者は手出しできなくなるって」
「そっか、じゃあお姉さんとこまで行ったらひと安心だな」
正直、自分のことよりもサイカたちの今後の方が気がかりだった。ちゃんと守ってくれる人がいるなら大丈夫だろう。
ナビの指示に従って、巽は高速を降りる。
時刻は午前十時すぎ。インター出口から接続する幹線道路はそこそこの交通量だ。
九州の玄関口であり、昔は公害の街として知られていた地区。だが、零和十二年の現在、その面影は全くない。高層マンションや商業施設も多く、綺麗に整備された街並みが続く。
住宅エリアの近く、高校や大学の並ぶ地区に、目的地である九慈大学病院はあった。
『満』と表示のある北側の正面駐車場を行き過ぎ、案内看板に従って病院南側の裏手へと回る。
総合病院だけあって、駐車場の数は十を超える。病院に近いところはことごとく満車だ。どのみちトラックは駐められない。
「南玄関の前まで行った方がいいな。ロータリーあるし」
巽はロータリーに入ると、他の車の邪魔にならない位置でハザードを焚いて停車した。
「よし、到着だ」
「えぇ……」
いよいよ別れの時である。
「巽さん、本当にありがとう。あなたのトラックに乗らなかったら、とてもじゃないけどここまで来られなかった」
「思いがけず大冒険だったな。こんな経験、なかなか忘れられそうにねぇや。楽しかったよ」
忘れない。敢えて言葉にする。あくまで軽い調子で。
これが一本の映画だとしたら、ストーリー中盤のほんの一コマだろうか。
物語の主役たるハンサムショートの美女が楚々と微笑んでいる。名もなきトラックドライバーの出番は、きっとここでおしまいだ。
「さぁ、アトリ。そろそろ行かなきゃ。巽さんにバイバイして」
「え?」
小さな手が巽の腕を掴んだ。
「おじさんは? いっしょにいかないの?」
「俺はこれからまた荷物を運ぶ仕事があるんだよ」
「やだ! おじさんもいっしょがいい」
碧みがかった瞳が、縋るように見上げてくる。
その姿が、声が、記憶の中の像と重なる。全く似てないはずなのに。
巽はシートの後ろに転がっていたドラグーンスの青いキャップを拾い、アトリの頭に被せた。
「アトリ、トラック運転したいか?」
「うん!」
アトリのズボンのポケットには、あのお子さまランチのおまけが入っている。
「じゃあ、これからたくさんメシ食って大きくなれよ。そうすればトラックにも乗れるようになる」
「ほんと?」
「あぁ。そのためには、ここでバイバイだ」
「そっかぁ」
大きなごつい手で、帽子ごとぐりぐりと頭を撫でてやる。
『約束』になってしまわないように、言葉を選んだ。もうこれきりなのだから。
アトリはどんな大人になるのだろう。きっとこの先、いつまでも想像できる。あの子は元気に暮らしているのだと。
サイカが口を開く。
「ねぇ巽さん、連絡先を教えて。アトリに貸してもらった服を返さなきゃ」
「いや、いいよいいよ。アトリにやるよ。今ちょうどぴったりだろ」
「でも、大事なものなんでしょ?」
また、一瞬の間。即座に否定できなかった。
巽はぼりぼりと頭を掻く。
「んー……別に大事ってほどでもねぇんだけどな」
そう言って懐から名刺ケースを取り出し、その中の一枚をサイカに渡した。会社の住所や端末の電話番号が記載されている。今時珍しい、アナログな紙タイプのものだ。
「じゃあ、アトリがでかくなってその服が着られなくなったころにでも、着払いで送ってくれよ。気が向いたらで全然いいからな」
「巽、晃一さん……」
名刺に視線を落としたサイカは、まるで大切なもののように、巽の名を呟いた。その小さな紙片を、丁寧にコートのポケットへと仕舞う。
「ありがとう。いずれ必ず」
巽は思わず息を呑んだ。
サイカの笑顔が、あまりにも美しかったから。
それは、クールで取っ付きづらい当初の印象からは程遠い、柔らかで温かい自然な笑顔だった。
手を伸ばしたら、容易く触れられる距離。
だが、巽は両手をハンドルに置いた。
「さぁ、そろそろ行った方がいい。お姉さんが待ってんだろ?」
「そうね。じゃあ、私たちはこれで。本当にお世話になりました」
「おじさん、バイバイ」
「あぁ、元気でな」
キャビンを降りて病院の南玄関へと向かう二人を、運転席から見送る。
途中、アトリが何度も振り返った。そのたび、ぐっと胸が詰まる。
建物の入り口に行き着いた彼らは、揃ってこちらを向く。
その、母子のような二人連れに、巽は軽く片手を上げた。
サイカが、深く深く頭を下げる。アトリはぶんぶんと両手を振っている。
「またね!」
最後に、甲高い声が耳に届く。
やがて二人の姿は病院の中へと消え、ごくありふれた日常の風景が戻ってくる。
またね、か。
時刻は午前十時十五分。
巽は慣れた動作でギアを入れ替え、いつも通りにトラックを発進させた。
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