第15話 まさかのカーチェイス

 あいつら配管工ブラザーズ、元の服に着替えたんだな。場違いにも、巽は呑気にそんなことを思った。

 冗談みたいなしつこさでアトリを狙う男二人は、じりじりこちらへ向かってきている。


 運転席の窓の外には作業員。恐らく『街』の手の者だ。その男が、静かな声で言った。


「大人しくこちらの要望を聞いていただけるのであれば、悪いようにはしません。巽運送さん」


 冷たい汗が腋の下を伝っていく。

 どうすべきかと、巽がパニックになりかけたその時。


「要望って、どんなことかしら」


 こめかみに、硬くて冷たい感触。

 視線だけを左に動かせば、目に入るは黒光りする銃身。

 その向こうに、凍て付くような笑顔を浮かべるサイカが見えた。

 赤い唇が、ぞっとするほど美しい弧を描く。


「離れなさい。この件で一般人が死んだら、いろいろ不味いんじゃない?」


 白魚の人差し指は、引鉄ひきがねにはかかっていない。だが、巽は反射的に両手を上げる。もう刷り込みみたいなものかもしれない。


 路上の二人が、はたと足を止めた。作業員風の男は見て分かるほどに動揺している。


「おっ……落ち着きなさい、そんなことをしても——」

「聞こえなかった?」


 サイカの顔からすぅっと笑みが消え、銃口が相手へ向けられる。


「離れて」


 絶対零度の声音。

 作業服の男が後退あとじさって離れた直後、吐息に近い囁きが巽の耳朶を掠めた。


「出して」


 ぞくりとする。変な性癖に目覚めそうだ。

 巽は大人しく、上げていた両手をハンドルに戻した。

 いつもの手順でブレーキとクラッチを同時に踏みながら、シフトレバーを二速に入れる。ブレーキから移した右足でアクセルを軽く踏み、代わりにクラッチペダルを上げていく。

 トラックが、そろりと動き始める。

 二速から三速へ、巽は息をするように自然なクラッチ繋ぎでギヤを入れ替え、アクセルを踏み込む。


 黒スーツの男たちが作業車からバリケードを三つ四つと掴み、トラックの進行方向へと放り投げた。

 派手な音を立てて道路上に散らばり折り重なったそれは、左車線から右車線の半分ほどまでを塞いでいる。尖った脚がこちら向きに突き出ており、下手すると車体に刺さりかねない。


 徐々に加速するトラック。接近する障害物。通り抜けできる隙間は右車線の半分のみ。

 今。

 ハンドルを切る。滑らかに軌道が変わる。

 ヘッドの左側でバリケードを引っかけ、撥ね飛ばした。

 右の前輪が中央分離帯の縁石に乗り上げ、キャビンが傾く。


「おっ……」


 ガタン、とタイヤが着地する。

 下からの衝撃に、空間ごと弾む。

 荷台の右後部が鉄柵に擦ったらしく、耳障りな擦過音が鼓膜を引っ掻く。

 そこで焦って、ハンドルを切り過ぎた。

 トラックが、今度は三角コーンを踏み潰して左車線へ進入する。

 向かう先にあるのは、道路脇に停まった黒塗りのセダンだ。


 息を呑む。

 ぶつかる!


 その時、自分がどんな運転操作をしたのか、もはや記憶にない。

 いくつかペダルを踏み替え、シフトレバーを操作し、ステアリングを右へ左へ。

 遠心力で振られたアトリが悲鳴を上げたことは覚えている。度重なる無理な急ハンドルで、後輪が浮きかけたのも。

 ドスンという衝撃と共に、車体が大きくぐわんと揺れる。

 気付けば巽の相棒は、体勢を立て直した状態で無事に右車線へ復帰していた。


 人間、驚きすぎると上手くリアクションできなくなるらしい。

 巽は淡々とギヤを入れ替えつつ、からからの口をどうにか開いた。


「なぁ、あんたさ、先生より女優のが向いてんじゃねぇの」

「あなたこそ、スタントマンでもいけると思うけど」

「じゃあ、一緒にハリウッドでも目指すか」

「冗談じゃないわよ」


 軽口を叩き合いながらも、巽の心臓は未だバクバク言っていた。急に変な笑いが込み上げてくる。


「はっ、ははは……もう、何なんだよこれ! あいつらの車壊したんじゃなかったのかよ!」

「車、代えてきたみたいね。まさか先回りされてるとは思わなかったけど、予定通り行くしかないわ。あなたは私に脅されて、仕方なく九慈大学病院までトラックを走らせるの」

「あーなるほど、俺は脅されてる設定のわけね、了解了解……」


 大人二人に挟まれて、アトリはかちこちに硬直していた。先ほどの激しい揺れのショックが後を引いているらしい。

 巽はスピードを上げた。とにかく今は逃げねばなるまい。


「トラックって割と簡単に横転すんだぞ。危うく大事故になるとこだっ——」

「あっ」


 サイカが声を発し、巽も気付いた。

 ドアミラーに、あの黒いセダンの姿が映り込んでいる。


「追ってきやがったな」


 ギヤはとうに七速だ。それでも相手の車はぐんぐん追い上げてくる。


「追いかけっこになるわね。道が空いてて良かった」

「良くねぇよ! 見ろ、もう百キロ超えてる! この車、後ろんとこに『法定速度を遵守します』って書いてんだよ!」


 トラックの高速道路での法定速度は時速八十キロなので、二十キロ以上オーバーしている。窓の向こうでは景色が飛ぶように流れていく。

 こちらを追い越したセダンが、左車線から巽の前へ出てきた。


「おいおい、左から捲ってくるのはルール違反だぜ」


 巽は素早く左へと車線変更し、アクセルをべったり踏み込んで相手を抜き返す。痩せ型の、確かナガヤとかいう名前の男が助手席の窓から静かにこちらを見据えている。


 トンネルに入る。視界が一気に暗くなり、車内の温度までもが下がった気がした。

 等間隔で天井に張り付いた白色のLED灯が目に痛い。センターラインは黄色なので、車線変更は禁止だ。

 ここへきて交通ルールを遵守するような悠長な状況ではないが、壁面の近い、狭いトンネル内で下手な動きをすると、車体の大きなトラックは接触の危険がある。


 黒いセダンが、巽の斜め後ろに付いた。助手席の窓が下がり、ナガヤが顔を出すのがミラーに映る。

 その手に握られているのは、一丁の拳銃。


「え?」


 まさかと思った次の瞬間、耳を劈く銃声がトンネル内部に響き渡る。

 命中こそしなかったが、それは巽をパニックに陥れるに充分だった。


「はぁぁ?!」

「落ち着いて、威嚇射撃よ。アトリが乗ってる限り、命を危険に晒すような真似はしないはず」

「いやいやいや! もうハリウッドでやってくれよマジで!」


 叫ぶ巽に対し、サイカは冷静だ。


「巽さん、あれの真後ろに付けて」

「なんで!」

「いいから、ギリギリまで煽って」

「ギリギリまでって、そんな無茶な!」


 なよやかな白い手が、巽の肩にそっと触れる。


「あなたならできるわ」

「……ッアアア! もう! 分かったよ!」


 逆に煽られた。

 変に興奮状態で、とてもじゃないが正常な判断ができない。もうどうにでもなれと、腹を括る。


 一旦減速してセダンより下がると、黄色いセンターラインを跨いで右車線に移動し、言われた通り相手の真後ろにぴったり付いた。

 セダンが加速するのに合わせて、巽もスピードを上げる。

 気付けば時速は百三十キロ超。捕まったら一発免停である。

 車間距離は無いに等しい。向こうのバックミラーには、このトラックのフロント部分が目一杯に映っていることだろう。自分か相手のどちらかが少しでも気を抜いたら、たちまち衝突するに違いない。

 こちらはトラックだ。純粋な物損・人損リスクとしては、相手の方が遥かに高い。この際、風評リスクは置いといて。


 横から伸びてきたサイカの手が、ハンドル中央部のホーンスイッチを押した。喧しいクラクションが、トンネル中の空気を震わすように鳴り響く。


「ほらほら、早く退きなさいよ!」


 タチ悪ぃ!

 半ば潰されたアトリは今にも泣き出しそうな表情だ。


 はたして、耐えられなくなったらしい黒セダンは、ついに左車線へと逸れる。そのままスピードを落とし、こちらと横並びになった。

 運転席のウズマキは、ハンドルを握るのに忙しいらしい。また後ろに付かれてナガヤから銃で狙われることを恐れ、巽はアクセルを緩めた。

 互いに減速しつつ、抜きも抜かれもしないまま並走すること数百メートル。

 ようやく長いトンネルの終わりが見える。

 出口からしばらく進んだところに合流地点があり、そこから先の道には左側から流れ込んだ車両がぽつぽつと走っている。

 あそこまで行ったら、こんなカーチェイスを繰り広げるわけにはいかない。下手したら他の車を巻き込んで大惨事になるし、周りに合わせれば敵の追従を許してしまう。


 涼やかな声が、凛と告げた。


「巽さん、私が合図したら、一気にスピードを上げて」


 もはや返事をする余裕もない。

 サイカは助手席の窓を下げつつ、懐から銃を抜いた。

 いったい何をしようと言うのか。隣にばかり注意を払っていられない。


 サイカが短く叫んだ。


「今!」


 限界まで張り詰めた神経が、まるで自分の意思とは別の次元で、右足をしてアクセルペダルを踏み込ませる。

 不意打ちのような加速に、相手が遅れを取る。

 時速百四十キロ。エンジンが唸る。タコメーターはレッドゾーンだ。

 巽運送のトラックが、黒塗りのセダンをリードしていく。

 サイカは窓から上半身を出し、後方へ向けて銃を構える。


 相手がこちらの荷台のエンドラインより下がる瞬間。

 トラックキャビンがトンネル出口を行き過ぎる瞬間。

 一気に開けた視界に、巽の目が眩みかけたその瞬間。


 銃口が、火を噴いた。


 放たれた弾丸は、黒いセダンのボンネットを撃ち抜く。トラックの長い荷台とトンネルの壁に阻まれて、上手く避けることができなかったらしい。

 鼓膜を切り付ける、悲鳴のようなブレーキ音。

 コントロールを失ったその車は、ドアミラーの中でスピンして荷台の向こうへと消える。

 ドン、という衝突音を後に、巽は合流地点を通過した。


 トラックの速度が八十キロまで落ちたころ、巽はカーナビの画面をバックモニターの映像へと切り替える。

 そこに映っていたのは、トンネルの出口付近を塞いで立ち往生する黒セダンの姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る