第14話 いつか大人になったら
翌朝。六時に起床した巽は、同じく早起きしたサイカとアトリを誘って、喫茶コーナーで朝食を摂った。お客は少ないが、アトリは念のためドラグーンスの青いキャップを被っている。
「ぼく、おこさまランチがいい」
「うーん、今まだ店が開いてないんだよ。また今度にしな」
「えー」
今日の午前中には彼らと別れてしまうので、自分がお子さまランチを食べるアトリの姿を見ることはもうないのだ。そう考えると、どこか残念にも感じる。
「好きなものを自由に食べられる日が、すぐに来るわ」
そう言うサイカの前に並んでいるのは、カップラーメン一つに菓子パンが二つ。
「昨日も思ったけど、あんた、見かけに寄らずかなり食うよな」
「……頭脳労働って、意外とエネルギーを消費するのよ。食べられる時に食べておかないと。巽さんだって、私と同じくらい食べるじゃない」
こちとら身長一八五センチある体力自慢おじさんなのだ。しかも、頭脳労働とは? 普段はともかく、今は?
いろいろ突っ込みたいことはあったが、やめておいた。何だかんだ、サイカの食いっぷりは見ていて気持ちがいい。
食事を終え、席を立つ。
「よし、忘れ物はないな。行くぞ」
「前にしか進まないトラックでね」
サイカがくすくす笑いながら言うので、改めてじわじわ恥ずかしくなってくる。
昨夜はちょっと、テンションがおかしかったのだ。あのような深夜に、あのようなとんでもない事実を知ってしまった後なら、誰だってそうなる。不可抗力だ。どうにもできなかった。仕方ない。
だが、可能ならば時間を巻き戻して、もう少しマシなセリフと入れ替えたい気持ちはある。
後悔は先に立たない。今はそれを悔やむばかりだ。
午前七時。かくして予定通り、サービスエリアを出発した。
三人の乗ったトラックは既に中国高速道に入っており、そろそろ広島県に差しかかるところだ。
「休憩挟みながら行って、例の病院に到着するのは十時過ぎくらいだな」
道はガラガラと言ってもいいほど空いており、流れも順調。二人を下ろしてから博多の荷主のところへ行けば、正午ごろには荷下ろしも終わるだろう。
「くるま、きのうよりだいぶすくないね」
「昨日通った名古屋-大阪間はいつも混みがちだからな。この辺はいつもこんなもんだよ」
「アトリ、トイレは早めに言うのよ」
「はーい」
サイカもアトリも、ずいぶんリラックスしているように見える。
特にサイカは、纏う雰囲気が驚くほど穏やかになった。表情も柔らかいし、口調も優しい。抱え込んでいた事情を巽に打ち明けたことで、少し楽になったのかもしれない。
いいな、と思う。
だが、ここまでだろう、とも。
例え事情を知ったところで、巽にできるのはせいぜい二人を目的地まで乗せていくことぐらいだし、事が事だけにあまり深く関わるのは危険だ。
そもそも、相手は国家機密とされる研究に関わる才媛。巽とは元から住む世界が違う。
——この先、誰かに何かを訊かれても、ずっと
昨夜、それぞれ寝床へ向かう前に、サイカからはそう告げられた。
無論、誰かに喋るつもりは毛頭なかった。だが——
——私とアトリのことは、綺麗さっぱり忘れてもらった方がいいかもしれない。初めから、会ったこともない相手だと。
それは少し、寂しい気がした。
一時間半ほど走ったところで休憩を取る。トイレと自販機とスナック販売のコーナーがあるだけの、小さなパーキングエリアだ。
平日の午前中の今、巽運送のトラック以外に車の姿はない。よく晴れた空に、暖かな日差し。ロクに手入れもされていない伸びっぱなしの植え込みすら、深い緑が輝いて見える。
穏やかで、いい日和だった。
巽が錆びた灰皿の側で煙草をふかしていると、用を足したらしいアトリが寄ってきた。
「おじさん、つぎはぼくがうんてんしてみたい」
「ん? トラックをか?」
「うん」
きらきらした瞳で見上げてくるアトリに、巽は思わず苦笑してしまう。まだ長い煙草は、さっと先を押し潰した。
「そうだなぁ、アトリがもっと大きくなってからだな」
「どのくらい?」
「トラックを運転するための免許は、
「はたちって?」
「
「なんで?」
「トラックの運転は難しいからな」
「なんで?」
「トラックはでかいからな」
「なんで? なんでトラックはでっかいの?」
あれ、そっち?
「うーん……荷物をたくさん運ぶためだな。重いものをたくさん載せて、遠くの街まで運ぶだろ。そのためにパワーのある大きいエンジンも積んでる。だから、トラックはでかい」
「そっかぁ」
「でかいから、道を曲がったりする時にうまくハンドルを回さないと、どっかにぶつけて事故になっちまったりする。だからトラックの運転は難しいんだ。たくさん練習しないと、上手にできねぇだろ」
「うん」
一応、最初の質問を帰結させてやった。
懐かしい、と思った。
次から次へ方向を変える、数珠つなぎの質問攻め。
その懐かしさは、未だ乾ききっていないらしい疵口を、不意打ちとばかりに掠めていく。
そこへ、缶コーヒーを手にしたサイカがやってきた。
「アトリ、あんまり巽さんを困らせちゃ駄目よ」
「えー」
「ごめんなさい、この子、誰にでもこうなのよ」
「いいや、子供ってこういうもんだろ」
美しいアーモンド型の目が、ぱちりと瞬かれる。
「慣れてるのね、小さい子の相手」
一瞬の間。
呼吸が止まりかけたのを気付かれぬよう、巽は大仰に片眉を上げ、肩をすくめて見せた。
「……どうかな。まぁ、子供は好きだよ」
「そう」
アトリがサイカの袖を引いた。
「ねぇ、サイカせんせい。イカルはいつおきるの?」
今度は、サイカが息を止めたのが分かった。
「……早く、起きるといいわね」
「うん。イカルがおきたら、いっしょにトラックのりたい」
「おぉ、マジか! トラック、そんなに気に入ってくれたんだな。よし、じゃあ、そろそろ出発するか」
「うん!」
アトリを先へ促し、ちらりと振り返る。
その時、一瞬見えたのは、白い頬を色濃い日陰の中に沈ませた、酷く頼りなげなサイカの姿だった。
午前九時。
あまり変わり映えのしない
対してサイカは、やはりどこか表情が暗い。巽はハンドルを握りながらも、進んでアトリの相手をしてやった。
この旅も、終わりが近い。
いつもヒッチハイカーを乗せると、別れの間際に名残惜しく思うものだが、今回はそれも
きっと、こんなドラマチックな出来事は二度とないだろうと思う。
いくつもいくつも、長いトンネルを潜っていく。そのたび切り替わる視界の明と暗に、現実感が遠ざかる。
本当はやっぱり、夢か何かじゃないだろうか。そんな気さえしてくるほどに。
もう何本目かも分からないトンネルの、出口の向こう側。小さく覗く景色の中に、赤色ランプの点滅が見えた。その下には『作業中』と表示された電光盤がある。
「あれ、なぁに? ぴかぴかしてる」
「工事か何かかな」
トンネルを抜けた先は、赤白縞模様の三角コーンによって車線が規制されていた。
工事看板などを積んだ平ボディの小型トラックが停まっている。更に前方には、ハザードランプを焚いた黒塗りのセダンも。事故だろうか。
そのまま通過するつもりでいたが、赤い手旗を持った作業員が停止するよう合図を送ってきた。
いったい何事かと、巽は指示に従って停車する。
作業員が運転席側へとやってきたので、ウィンドウを下げて応じた。
「何かあったの?」
「すみません。ちょっとこの先、事故の関係でいろいろ落下物がありまして」
「へぇ。そんな注意情報出てたっけ?」
「それが、つい先ほどの事故のことでして。取り急ぎ、ここを通る方にお知らせしてるんです。今、作業員が安全確認してますんで、少々お待ちいただけますか」
「はぁ」
安全確認なんて、どこでやっているのだろう。ぱっと先を見た感じでは、通行にさしたる危険はなさそうに思える。
その時、巽の腕時計型端末から、着信を告げる電子音が鳴り始めた。
「ん? 会社からだな」
事務員から連絡が入ることは珍しくないが、こんな朝から何の用事だろう。爪の先で応答をタップする。
「はい、巽です」
『おはようございます。社長、今よろしいですか』
「おう、いいよ」
不意に隣のサイカが巽の袖を引いた。
「ねぇ、何か変だわ」
「え?」
顔を上げると、もう一人の作業員が黒いセダンの方へ駆けていくのが目に入った。運転席の人物に話しかけているようだ。
通話口の事務員の声が遠い。
『実は少し前に、どなたか男性の方から事務所に電話がありまして』
視界の中では、セダンの前部の両ドアが開き——
「巽さん」
小さく巽を呼ぶサイカの声は、低く強張っていた。
『社長? どうされました?』
「悪い、後でかけ直す」
通話を終了させつつ、注いだ視線の先。
黒塗りの車から降りてきたのは、見覚えのあるシルエットの二人。
小太りと痩せ型、黒いスーツ姿の男たちだった。
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