第13話 サイカの目的

「イカルに、ある感染症の症状が出た。原因が未だに特定できていないから、予防もできない感染症よ。あの施設の子供たちは一般より発症率が高い上、進行が異様に早い。イカルは治療が追い付かず、心臓に重篤な障害を負った」


 サイカの口調は、あくまで無機質だった。


「病気になりにくいようにと、免疫に関わる部分もせいかもしれない。研究室ではずっと、この問題の解決策をいろんな方法で探ってる。でも今回、『街』の上層部からとんでもない指示が降りてきたの」

「とんでもない指示?」

「……あの『街』がいくつかの区画に分かれてるって話したでしょう。三年前に就任した『街』の統括所長が人工臓器畑の人で……どうも、生体ドナーの可能性も視野に入れてるみたいで——」


 あ、何かまた耳慣れない単語が出てきた。


「そのために、イカルは今、装置に繋がれた状態で生かされてる」


 一瞬、巽の脳裏にフラッシュバックする光景があった。白いベッドに横たわり、いくつもの管で繋がれた幼い子供——

 腹の底の冷える思いがした。心臓が不快なざわめき方をしている。意味ははっきり分からなくとも、嫌な予感しかしない。

 その先を、聞きたくないと思った。


 サイカが、平坦に告げる。


「アトリから摘出した健康な心臓を、イカルに移植しろ、と」


 途端、巽の胸の奥から、どうにも形容し難い感情が湧き出した。背筋を、氷のような何かが這い上がっていく。


「つまり、イカルを生かすために、アトリを殺すってことか?」

「えぇ、その通りよ」

「何だよ、それ……」

「あらゆる角度から子供の生きる可能性を探れ、実験体を、って」

「……胸糞悪ぃ話だな。命を何だと思ってやがるんだ」


 続くサイカの声は、一層暗く、震えていた。


「結局、さっき巽さんが言った通りかもしれない。残ったのが、凡庸な個体アトリだったから。優秀な個体イカルさえ無事だったら、きっとこんな指示はなかったのよ」


 この技術に問題はないのか。先ほど感じた疑問への、一つの答えのようなもの。

 問題はきっと、技術そのものに限ったことじゃない。


 これは本当に、映画の中の話ではないのか。むしろ、そうであればどれだけ良かっただろう。やはり自分は、物語の主人公にはなれそうもない。


「……俺は高卒で、学が無ぇからさ。そういう頭のいい奴らが考えることなんて、一生理解できねぇと思うわ」

「同じ教育スタッフチームのメンバーは、その指示に反感を持つ人ばかりだったけど、『街』の中でも立場が弱くて……抗議した私は、スタッフ失格だそうよ。だいぶ上の方の人からそう叱責を受けた」

「はぁ。俺から見たら、あんたにそう言った奴こそ人間失格だね。そもそも子供を道具としてしか見てねぇだろ」

「そうね……」


 揃えた膝の上で、両の拳がぎゅっと握り締められた。


「ようやく目が覚めたの。自分がどんな恐ろしいことに手を貸していたのかって。こんなのはおかしい。大人私たちは誰も、子供たちに無理やり何かを押し付けるべきじゃない。私にもっと物を言える立場があったら……ううん、ちゃんとあの子たちを助けられる力があったら、どれだけ良かったか」


 サイカは固く瞼を閉じ、静かに息を吐く。まるで痛みを堪えるみたいに。

 再び開いたまっすぐの瞳には、強い意志の光が灯っていた。


「だから、アトリを連れ出したの。私には、それ以外にアトリの命を救う方法がなかったから」


 巽は左隣で眠るアトリに目を向ける。彼は何か夢でも見ているのか、口を動かしながらむにゃむにゃと何事かを言っている。


「ん? 何だ?」

「……これ……おいしいねぇ……」


 思わず吹き出してしまった。


「おう、朝になったらまた何か食べような」


 小さな頭に、ぽんと手を置く。

 こんな子を、いったいどうしたらモノ扱いできるのか。


「アトリさ、あの追っ手が来た時、咄嗟にこの上のスペースに隠れただろ。すげぇ賢い子だと思ったよ、俺は。連れて行かれなくて良かった」

「……えぇ」


 よく見ると、アトリの手にはまたトラックのおもちゃが握られていた。よほど気に入ったのだろう。


「それで、『街』を出たはいいけど、その後どうするつもりなんだ?」

「アトリの戸籍を、取得しようと思ってるの」

「戸籍? どうやって?」

「アトリとイカルの生物学上の母親が、私の姉なの。姉は以前、私と同じ特A区画で研究者をしていた。自分の卵子を使ってデザイナーベビーの開発実験をしていたのよ」


 そう言えば、サイカの姉がアトリの母親だと聞いていた。


「結婚と同時に退職して、今は北九州にある九慈大学病院で医師をしてる。もう『街』とは無関係よ。だから姉を母親として、出生届を出してもらうの」

「あれ? 出生届って、誕生から二週間以内とかじゃなかったっけ?」

「期限が過ぎてても、ちゃんも手続きを行えば受理されるのよ。出生証明書がないから、法務局に相談する必要があったりして、かなり煩雑にはなるけど」


 知らなかった。


「DNA鑑定すれば、姉とアトリが母子であることを証明できる。戸籍さえあれば、あの人たちも下手なことはできないはずよ」

「なるほど」


 実験施設で生まれた無戸籍児だからこそ、生かそうが殺そうが問題にならないのだ。


「というか、姉妹揃ってあの『街』にいたんだな」

「……父が、『街』の設立メンバーの一人で。三年前に定年退職して、今は名誉理事なんだけどね。機密保持のために、関係者はだいたい縁故で集められてるの」

「へぇ……それなら、親父さんに相談したら何とかしてもらえるんじゃねぇの? そんなお偉いさんならさ」


 白い頬が、ぴくりと動く。


「いいえ、それは無理ね……名誉理事なんて名前だけで、何の決定権もないもの。そもそもあの人が、アトリみたいな子を助ける話に賛同するわけがない」

「あー……そう」


 父娘間に、何かしら拗れた事情でもあるようだ。底冷えするような声が怖い。


「えぇと、それで、お姉さんには話を通してあるんだな?」

「もちろんよ。まずは姉の勤め先の病院で、アトリの体調を確認してもらうことになってる」

「体調? アトリは元気だろ?」

「今のところはね。でも、いつどこから感染症が引き起こされるか分からない。それにアトリ、偶然ちょっと珍しい血液型なのよ。輸血にも少し心配のある身体だから」

「あぁ、それで、アトリがけた時に……」


 ——血は……出てないわね。良かった……


 大袈裟だと思ったが、感染症のことを考えれば、神経質になるのも無理はない。

 献血者も、くだんのウイルス騒動から極端に減っているらしい。珍しい血液型なら、なおのことだろう。


「何かあったとしても、姉が協力してくれる。姉は、命を救う仕事を選んだから」


 しかしサイカは、どこか苦しそうに目を伏せた。


「アトリはそれで助けられるかもしれない。でも、イカルのことは……結果的に、見捨てたようなものね。戸籍を取得した後、アトリは私が育てるつもりよ。それが私にできる、せめてもの償いだから」


 呟くように発せられたはずのその言葉が、なぜだか重い響きを残す。

 償い。

 いったい何のための、誰のための『償い』なのか。

 良くない。そういうのは、非常によろしくない。

 アトリが、これから先の人生を生きるためのことなのに。

 彼女自身にもアトリにも、そんなかせを与えるようなことは。


 巽は居住まいを正した。


「あのさ、これは例えばの話なんだけど」

「えぇ」


 伝えたい言葉がある。


「トラックは、前にしか進まねぇだろ」


 サイカがぱちりと瞬きし、表情を固めた。ちらとわずかに逸らされた目は、しかしすぐさまこちらに戻ってくる。


「……バックもできるわよね?」

「あぁ、そりゃ多少はバックもするさ。必要な時はな。だけど基本的には前に進むもんだろ。そうじゃなきゃ、預かった荷物を届け先まで運ぶことはできない」

「えぇ、まぁ、そうね……えぇ……」


 形の良い眉が、ごく小さくひそめられる。だが、巽は構わず続ける。


「つまりだな。何が言いたいかというと、目的を果たすためには前に進むしかないってことだ」


 それは、どんなことでも同じはず。


「もちろん、時にはバックしたり後方確認したりすることも必要だ。でも、やるべきことをやるためには、何よりもまず、しっかりと前を見なきゃならねぇんだよ」


 力強く言い切る。我ながら良いことを言った。心の中で、自分に対してサムズアップする。

 対するサイカは、睫毛一本動かすことなく、どうともつかない曖昧な顔をしたまま、巽のことをじっと見つめている。


 あれ、ちょっと伝わりづらかったか。

 咳払いを一つ。


「えぇと、あのな、要するに今のは——」

「いえ、あの、大丈夫よ。あなたの言いたいことは何となく分かったから」


 でも、とサイカは口元を押さえる。


「……ごめんなさい、ちょっと、もう限界……ふふっ」


 そう言って、肩を震わせてくつくつと笑い始めた。


 今度は巽がきょとんとする番である。

 自分が言ったことへの返答としても、これまでの彼女の態度からしても、この反応は意外だった。


 おかしくて堪らないといった様子のサイカが、なおも嫋やか笑みを零しながら、巽に視線を向けてくる。


「もう、変な人」


 その瞬間、心臓が勢いよく跳ねた。かぁっと一気に体温が上昇する。


「あー……変だったか、はは……」


 何これ。本当に何これ。

 照れ隠しで、がしがしと頭を掻いた。


「まぁ、なんだ、事情はよく分かったよ。俺は、あんたの行動は正しいと思う」

「……ありがとう」


 サイカの声から、零れ落ちるような安堵を感じた。ずっと気を張っていたのだろう。


「ちゃんと安全第一で北九州まで乗せてくから、安心してなよ。あと少しだし、何事もなく到着するだろ」

「えぇ、ありがとう……よろしくお願いします、巽さん」


 さらりと揺れる髪。赤い唇は、柔らかな弧を描いている。自然に細められた目は潤んでいるようにも思えて——

 一瞬ぼうっと見惚れてしまい、巽ははっとして眉に力を入れた。


「……よしっ、そろそろ休むか! あそこにあるのが宿泊所だ。朝七時には出発したいから、ちょっとでも長く寝た方がいいぞ! 俺はざっとシャワー浴びてから、この上で寝るよ」


 突然大きな声を出したせいか、アトリが「うーん」と唸った。しかしそのまま再びすぅっと寝付いたので、二人で視線を交わして軽く微笑み合う。

 胸の奥が、ほのかにそわそわ温かい。


「私、チェックインしてくる」

「おう」


 車を降りて宿泊所へと向かう細身の後ろ姿を見送って、ぺしぺしと両頬を叩く。

 しっかりしろ、巽 晃一。

 いい歳して、というか、たまたま車に乗せているだけの相手だぞ、と。

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