第19話 胸を穿つ刺
心臓が凍り付いた。聞き間違いではない。『デメリット』という言葉が、嫌に冷徹に響く。
姉には家庭があるので、当然そのことも込みで相談していたはずだった。
「え、えぇ……もちろん、姉さんに迷惑をかけるのは申し訳ないと思ってるけど……」
「私じゃない。あなたにとってだよ、サイカ」
きっぱりとした口調で言ったチカの目には、サイカの身を案じる色が浮かんでいた。
「禁を冒してアトリを『外』に連れ出して、追っ手までかかった。彼らは、アトリの戸籍取得を何としてでも阻止してくるでしょうね。あなたがどんな目に遭うのかと思うと、すごく心配なの」
「あぁ、それなら大丈夫。上手くやるわ」
「サイカ、よく考えてよ。例え戸籍が取れたとしても、その先はどうするの? どうやって生きてくつもりなの?」
「それは……」
思わず口ごもる。だが現実として、確かに大きな問題だ。
「もちろん、何か新しい仕事を探すつもりよ。アトリと二人で暮らせる部屋を借りて——」
「甘いよ、サイカ」
チカの口調が強くなる。
「子連れの女なんて、そうそう仕事は見つからない。仕事がなければ部屋も借りられない。それとも、静岡の実家を頼る? お父さんが許してくれると思う?」
巽にも説明した通り、姉妹の父親は『ふくしま特別研究都市』の設立メンバーであり、現在は名前ばかりの名誉理事となっている。
それでも、『街』の理念に反することをサイカがしでかしたと知ったら、さぞ怒るに違いない。既に連絡が行っている可能性もある。
「……無理ね」
「でしょ?」
それゆえ、家からも『街』からも出た姉を頼ったのだが。
「ねぇ、何の後ろ盾もなく女一人で子供を育てて生きるのって、本当に大変だと思うよ。子供がいないサイカにはぴんと来ないかもしれないけど」
ちくり、と胸に嫌な痛みが走った。
結婚を機に国内最高の研究機関を辞めて夫の元へ行き、現在は幼い子供を育てながら医師として働く姉。
恐らく、サイカには分からない苦労がたくさんあったのだろう。
だからって、何もそんな言い方しなくても。
小さく湧き立つ反発心を、深く息を吐いてどうにか散らし、食い下がった。
「でも、こうでもしないとアトリは……それだけは避けたいのよ。これから先すごく大変だってことは分かってる。まずは何にしても、アトリの命を繋ぐことを考えたいの。お願い、どんなことでもするし、絶対に姉さんの手は煩わせないから」
何よりもまず、生物学上の母親であるチカにアトリを我が子と認めてもらえないことには、この計画は破綻してしまう。
チカは哀れむような目をして、サイカの両肩をそっと掴んだ。
「ねぇ、もう一度よく考えてみて。今ならまだ間に合う。アトリを連れて帰れば、サイカは罪に問われることもなく『街』に戻れるんだよ」
「何言ってるの? そんなこと、できるわけない。『街』に戻ったらアトリは——」
「それでいいじゃない。それが実験体の役目でしょ?」
みしりと、心臓が軋んだ気がした。
「あの『街』ではいろんな研究がなされてる。どれもこの国にとって重要な研究よ。だからこそ、お父さんは私たちをスタッフとして招いた。優秀であること。機密を守ること。自分の娘たちなら適任だと言って。その期待を裏切るなんて」
今度こそ、サイカは言葉を失った。
父親。自分が幼いころから厳しかった父親。
——成果を上げて、世の中の役に立つ人間になりなさい。
それが口癖だった。
そうでなければ、きっと価値などない。
だんだんと呼吸が浅くなってくる。酸素が酷く薄い。
「アトリとイカルのことは、きっと無駄にはならない。この国の未来の幸せに貢献できる」
未来の幸せ。幸せって、何?
「まだ施設にはたくさん子供たちがいるんだから。教育チーム長、サイカのことをすごく評価してくれてるんでしょ? 教育スタッフとしての役目が何なのか、もう一度よく考えて」
「私の、役目は……」
絞り出した声は震えていた。
「私の役目は、子供たち一人一人を大切に育てることよ。アトリももちろん、その一人だわ。姉さんだって研究所にいた時、二人のことを大切にしてたじゃないの。初めて自分の卵子で成功したって。自分の子供も同然だって」
チカの表情がほんのわずか、苦しげに歪んだことに気付いた。
「それは……もう、昔の話だよ」
何かがおかしい。こんなの、姉らしくない。
アトリの小さな手が、サイカの指先を握った。
「サイカせんせい……」
確かな体温と、じっと見上げてくる無垢な眼差しに、心を立て直す。
——やるべきことをやるためには、何よりもまず、しっかりと前を見なきゃならねぇんだよ。
とにかく今は、前へ進むしかないのだ。
「私、『街』には戻らないわ。姉さんなら分かってくれると思ってたけど、難しいなら他を当たる。時間取らせてごめんなさい。どうもありがとう」
アトリを連れて立ち去ろうとすると、チカに行く手を阻まれた。
「どこに行こうって言うの? ほんと、サイカは小さいころから自分勝手だよね。我が強いっていうか」
「……姉さん、そこを通して」
「悪いけど、そういうわけにはいかないの」
「どうして?」
チカは小さく溜め息をついた。
「さっきのセリフ、そのまま返す。私が話せば分かってもらえると思ったんだけど。残念だわ、サイカ」
そう言って腕時計型端末を操作し、ある写真を空中投影した。そこに写っていたものに、サイカは目を瞠る。
見覚えのあるトラックのキャビン。短髪の男性ドライバーの横に、青い帽子の子供とコートを着た女性の姿。間違いなく、数時間前の自分たちだ。
「その写真……」
「巽運送さん、だったっけ? あなたに協力した運送会社さん。このままじゃ、この運転手さんにも迷惑をかけることになると思うよ」
そこでようやくピンときた。
先ほどチカは、「アトリを連れ帰れば、サイカは罪に問われることなく『街』へ戻れる」と言った。
なぜ、チカの立場でそう言い切れるのか。
理由は簡単。『街』の者から、サイカを説得するよう頼まれたからだ。そうでもなければ、チカがこんな写真を持っているはずがない。
先に血液検査と尿検査を受けさせられたのも、時間稼ぎのためだったのだろう。
「男の人だったら、サイカの言うことは何でも聞いてくれるだろうね。小さな運送会社みたいだから、ちょっとでも変な噂が立てば仕事なくなっちゃうかも。せっかく親切に助けてくれたのに。大人しく『街』に戻るなら、この運転手さんに関することは警察にも手を回して不問にするそうだけど」
だんだんと苛立ちが募り始める。
姉にそんなことを言われるのは筋違いだ。
「姉さん、どうして? 『街』から何か言われたの? 最初にアトリのことを相談した時、賛成してくれてたじゃない」
返ってきたのは無言。
むっとして、つい声を張る。
「アトリ、殺されちゃうのよ? 実験体とはいえ、ちゃんと生きてるのに。命を物みたいに扱って、どうして未来の世の幸せを語れるの? 姉さんは、命を救う仕事をしてるのに!」
サイカの指を掴むアトリの手の力が強くなる。それを、ぎゅっと握り返す。
チカの顔から、それまで薄く張り巡らされていた笑みが消えた。
「私だってね、アトリがどうなってもいいわけじゃないんだよ。でも、綺麗事じゃ済まないことだってあるでしょ」
そう告げた姉の声は低く、抑揚がなかった。
ふと思い付いた可能性を、サイカは口にしてみる。
「ねぇ、もしかして、ツグミちゃんに何かあった?」
その瞬間、チカの眼鏡の奥の瞳が揺らいだ。今までサイカに注がれていた強い視線が逸らされる。
「サイカには関係ない」
「何かあったのね?」
幾ばくかの沈黙の後、独り言のような言葉がチカの唇から零れる。
「……ツグミを、人質に取られてる」
「え?」
「今朝、保育園に送ってった後、『街』から連絡があった。だから、もう誤魔化しきれなくなった」
恐らく、高速であの男たちの車を撒いた後だろう。追跡の手は一本だけではなかったのだ。
チカは再び端末を操作し、二つの表を空中投影する。
「これを見て。血液のデータよ。右がツグミで、左がアトリ……さっき採ったやつね。同じでしょ」
確かに、それらは同じ血液型を示している。
「揃ってこういう珍しい型が出るのは、私の遺伝子に原因があるんでしょうね。もしツグミの命に関わるようなことになったら……血液センターにもストックが少ないもの。輸血用血液が間に合わないなんてこともある。そうなる前に、早くツグミを返してもらわないと」
自嘲気味な笑みが、淡い色の紅をさした唇からかすかに零れる。
「因果なものね。命を弄んだから、報いを受けたのかも」
凍り付いた心臓に、ぴしりとヒビが入る。チカの言葉が刺となって、その中心を穿っている。
因果。サイカの行動こそが、招いた状況のはずだ。
「姉さん……あの……」
「とにかく、そういうことだから。ごめんね、ツグミのことには替えられない」
チカは早口で言った。無に近い表情は、しかし努めてそうしているのだと分かる。それはどこか苦しそうにも見えた。
「もうすぐ『街』の人が迎えに来る。それまでここで——」
その時、チカの端末から呼び出し音が鳴った。彼女は短く切り揃えた飾り気のない爪の先で応答ボタンに触れた。
「はい、竹下です。……分かりました、今すぐに」
短い通話を終え、サイカをちらりと見たチカは、わずかに口角を上げる。
「呼ばれたから、行かなきゃ。悪いけど、迎えが来るまでここで待っててよ」
どうやら仕事に戻るようだ。
そして彼女は、またどこかへ電話をかける。
「すみません、竹下です。先ほどご連絡した件で。えぇ、第三病棟三階の中会議室です。……はい、お願いします」
それから一分も経たぬうちに部屋の扉がノックされた。
まさかもう『街』の手の者が来たのかと思いきや、顔を出したのはこの病院の警備員だった。
「すみません、短時間で済みますので。よろしくお願いします」
「はい、了解しました」
警備員に見張りを頼んだチカは、今度はこちらに一瞥すらくれず、白衣を翻して部屋を出て行ってしまった。
バタンと扉の閉まる音。その余韻が消えると、辺りは張り詰めたような静けさに包まれた。
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