第20話 脱出
生真面目で堅実な姉と、小器用で要領良く立ち回る妹。
幼いころから、
実際のところ、二人とも負けん気が強いという点ではよく似ていたはずだ。
共に父親譲りの頭脳を持った才媛だが、チカの方が抜きん出た秀才で、何より理屈が先に立つタイプだった。対するサイカは、机に向かうより人と接する方が好きで、姉とは別の道を選んだ。
片や研究者、片や教育者。
二人は『ふくしま特別研究都市』の設立メンバーだった父親に呼び寄せられ、同じ研究施設に所属することになった。
『街』のスタッフは、同様に縁故で集められた者が多かった。確かな人材を揃えるため、そして機密を保持しやすくするためだ。
姉とは特別に仲が良いというわけではなかったが、同じ目的のためなら上手く協力し合える間柄だと、サイカ自身は思っていた。
少なくとも、倫理観や矜恃は同質のものを抱いているはずだと。
だが。
——ほんと、サイカは小さいころから自分勝手だよね。我が強いっていうか。
——男の人だったら、サイカの言うことは何でも聞いてくれるだろうね。
姉はサイカのことを、本心ではそんなふうに思っていたらしい。
チカの言葉が頭の中をぐるぐる回って、思考を侵食している。
しかし、一方で。
——ごめんね、ツグミのことには替えられない。
じっと何かを堪えるような、苦しさが滲み出たような姉の表情が、脳裏に焼き付いている。
——だから、もう誤魔化しきれなくなった。
最初はサイカの相談にも快く応じてくれていたチカ。この件について、これまでにも『街』から接触があったのかもしれない。それをきっと、庇ってくれていたのだ。
だが、我が子を人質に取られてしまったから。
直接サイカと接触するチカに確実な足止めをさせるため、『街』の者はそのような手段を取ったに違いなかった。
行き場のない憤りが、ふつふつと湧き出してくる。
「サイカせんせい……どうするの?」
アトリに不安げな声をかけられ、はっとする。
定めきれない心の焦点に、向き合っている余裕などない。
判断しなければ。今、何をすべきなのか。
もし、ここから逃げ出したら、人質になっているツグミはどうなるのだろう。仮にも名誉理事の孫娘だ。万が一の可能性も否定できないが、よほど最悪の事態にはならないのではないか。
だが、もし逃げなければ、アトリは確実に殺されるのだ。
あぁ。
祈るような気持ちで、腹を括る。
今すべきなのは、一刻も早くこの場から脱出することだ。
「そうね、アトリ。どこかから出られればいいけど」
さして広くもない会議室。当然、扉は一つしかない。その外には警備員が見張りに立っている。
例え強行突破したとしても、アトリを連れた状態ではすぐに捕まってしまうに違いない。
ブラインドで遮光された窓は、下枠がサイカの胸ぐらいの高さだ。クレセント錠を解けば普通に開くが、外を覗くと真下はコンクリート。三階から落下して無事でいられる人間は滅多にいない。
部屋の中を見渡してみる。長机とパイプ椅子ばかりで、出口はおろか身を隠せる場所すらなかった。
チカが出て行ってから十分ほどが経過している。『街』の人間が迎えに現れるのも、もはや時間の問題だ。
いったいどうすべきなのか。
懐に手をやれば、そこにあるのは硬質な感触。だが、あまり無茶な手段は取りたくない。騒ぎを起こせば起こした分、リスクが増すだけである。
やはり、あの扉から出る他あるまい。
チカは警備員にどこまでの事情を話しているのだろうか。たぶん、事が事だけに詳細までは伝えていないはずだ。そこに賭けるしかない。
「アトリ、ちょっと……」
作戦を簡潔に伝え、小さくドアを開けた。
そして、部屋のすぐ外にいる警備員に控えめな声をかける。
「あの、すみません。ちょっとトイレに行きたいんですけど」
「えっ、じゃあもう一人応援呼びますんで……」
言いながら彼は耳のインカムに手をやる。目を離さないように言い付けられているのか。
「いえ、私じゃなくてこの子なので、二人で一緒に行きます」
「もれちゃうー!」
アトリはばたばたと足踏みしている。もう少し表情にリアリティが欲しいところだが、六歳児としては上出来だろう。
その初老の男性は、目を細めてくしゃりとした笑顔になった。
「ああ、そりゃ大変や。急いで行きましょか。私、ついて行きますんで」
三人で小走りにトイレへ向かう。
「大変やなぁ、こんな小っちゃい子も連れて。すぐ迎えの人来るけん、そしたら一安心ですよ」
「えぇ……」
曖昧に返事をする。
どういう話になっているのだろう。彼の口ぶりからすると、ストーカーか何かから追われているのを保護してもらう設定のようだ。何が何でもあの部屋に閉じ込めておくというより、危険がなくなるまで護衛してくれるつもりでいるように思える。
トイレは同じフロアの、中会議室とは反対の端にあった。ここまでの道中で人影はない。
つまり、人の出入りに紛れて警備員の目を逸らすのは不可能ということだ。
アトリと二人で多目的トイレに入る。演技ではあったが、ついでなので交代で用を足す。
さて、次なる手は。
「アトリ、聞いて……」
声を潜めてアトリに指示を出してから、トイレの引き戸を開けた。廊下で待っていた警備員に切り出す。
「あの、売店とか行ってもいいですか。何か食べる物がほしくて」
「おなかすいたー! もうぺこぺこー!」
アトリが大袈裟にお腹をさすっている。
警備員はさすがに、少し困ったような顔で言った。
「うーん、出歩いて大丈夫と? じきにお迎えくるって……」
「えぇ、大丈夫です。迎えが来たらすぐ行かなきゃいけないから、きっと食べ物を買う暇もないわ」
「おーなーかーすーいーたー!」
「すいません、この子、我慢できないみたいで。すぐ済みますから」
「しかしなぁ……」
当然、目は離せないだろう。
「……警備員さんがついてきてくださるなら、きっと安心だわ。お願いします。ね?」
甘く響く語尾。軽く顎を引き、そっと上目遣いで微笑むと、警備員は照れたように苦笑した。
「まぁ、そげん言うなら……」
ちょっとしたお願いごとぐらいであれば、大抵の男性は容易く聞いてくれる。
姉に言われたことは一理ある。自覚の上だ。
警備員に付き添われ、中央病棟一階の売店へと移動する。
昼時ということもあり、売店は混んでいた。レジには行列ができているほどだ。外来患者と思しき私服姿の人々をはじめ、パジャマを着て車椅子に乗った入院患者や、病院スタッフの姿も見える。適度なざわめきが心地よい。
出入り口は二ヶ所。陳列棚との位置関係をそれとなく確認する。
「良かった、怪しい人はいないみたい。さっと買い物済ませてきますね」
警備員を店の外で待たせ、サイカはアトリの手を引いて店内を巡る。彼の目がこちらを追っているのを感じつつ、商品を見るふりをしながら棚の向こうへ足を運び、もう一つの出入り口に近づいていく。
「ねぇ、なにたべるの?」
「ここでは買わない。病院の外に出てからね」
「なんで?」
「いいから」
どやどやとやってきた数人連れの客の陰に隠れる。
警備員の視線が、遮られる。
その一瞬の隙を逃すことなく、サイカはアトリを引き連れて店外へと抜けた。
午前の診療が終わったばかりのロビーは、まだまだ人で溢れていた。特に会計窓口は、たくさんあるベンチに座りきれずに立っている人もいる。
その隙間を縫うように行き過ぎて、早足で正面玄関を目指す。アトリはほとんど走っている。
あの警備員を欺いたことに、罪悪感はもちろんあった。サイカたちを見失ったことが知れたら、彼の責任になるだろう。
だが、今は背に腹は変えられない。ごめんなさいと、心の中で告げる。
「せんせい、どこいくの?」
「今はとにかく急いで!」
正面玄関をくぐり抜けて表へ出た時。
駐車場に、一台の車が入ってきた。
見覚えある黒塗りのセダン。ただし、ナンバーは記憶にあるのとは違う。
乗っているのは、やはりダークスーツの男たちである。間違いなく『お迎え』の者だろう。
空きスペースを探すセダンを尻目に、サイカはそそくさとタクシー乗り場へ向かった。下手な動きは却って目立つ。行き交う人にうまく紛れつつ、平静な足取りを装う。
ずらりと並ぶタクシーの列が見えてきた。あと少し、あと少し。
しかし——
「あの、すいません」
男性の声に呼び止められたのは、そんな折だった。
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