第21話 追い詰められる
かけられた声に、サイカの肩がびくりと跳ねる。
恐る恐る振り返ると、交通整理の警備員が青いキャップを手にして立っていた。
「帽子、落とされましたよ」
見れば確かに、色素の薄いアトリの髪が無防備に晒されてしまっている。
「あ、ありがとうございます……」
サイカはキャップを受け取り、アトリの頭に被せた。
これは不味い。いつの間に取れたのか。『街』の男たちに見られていなかったとしても、こんな目立つ風貌の子供がいたら周囲の人々の印象に残ってしまう。
特に、警備員同士は無線で連絡を取り合っているので、もはやサイカたちの足取りはバレたも同然だ。
とにかく、すぐにここから離れねばなるまい。
「サイカせんせい……」
「急いで」
歩みを止めようとするアトリの手を、構わず引いた。
ようやくタクシー乗り場へ行き着く。幸い、並んでいる人はいない。
サイカは先頭で客待ちしていたタクシーの後部座席へアトリと共に乗り込み、運転手に声をかけた。
「すみません、すぐ出してください」
「どちらまで?」
この辺りの地理は分からないが、なるべく早く移動手段を換えた方がいいだろう。
「えぇと、とりあえず、駅の方面に行ってください」
「
「あ、はい、小倉で……」
「かしこまりました」
病院の敷地を出たタクシーは、指示した通り小倉駅へと向かっているらしい。
その後のことは完全に未定だ。姉に頼る手を失った今、プランBのヒントすら掴めていなかった。
窓の外を流れる見知らぬ街の風景は、在りし日の迷子に戻ったようで、どうにも心許ない。
これから先、どこへ行ったら正解なのだろう。
腕時計型端末は、『街』の関係者や実家などからの着信を拒否するように設定してある。
退路は絶ったのだ。だから、前に進む他ないのに。
自分で告げたはずの目的地すら、ただ結論を先延ばしにするための中継地でしかない。
薄々気付いていた。この旅はきっと、もう長くは続かない。
無情な事実に頭の中を掻き回されて、次に取るべき選択肢も見定められない。
「せんせ……」
アトリが、サイカの腕に触れた。
実体を持つ確かな熱が、彷徨っていた思考を現実に引き戻す。
時刻は昼時。考えてみたら、まだ昼食を摂っていなかった。サイカ自身は腹の空き具合も覚束ないけれど。
「アトリ、何か食べたいものある? 駅に着いたら……」
視線を向けて、絶句した。
アトリが、苦悶の表情で胸を押さえている。色白の頬はいよいよ蒼白い。サイカに縋る手は、小刻みに震えていた。
「う……あ……っ」
「アトリ? アトリどうしたの?」
目の前が真っ暗になった。
アトリの身体に、何か異変が起きている。心臓だろうか。
「お客さん、大丈夫ですか? 病院戻ります?」
運転手にそう言われて、ますますパニックになる。
「あ、あの……」
戻ったら、あの黒ずくめの男たちに捕まってしまう。
いや、病人がいるのだから、処置はしてもらえるはずだ。
だが、その後はやはり『ふくしま特別研究都市』に連れ戻されることになるだろう。そうなったらアトリは——
しかし、アトリも心臓が悪いのならば、それをイカルに移植する意味はあるだろうか。むしろ、どうせ死に向かっているからと、より遠慮なく実験に使われるのだろうか。
ただの教育スタッフであるサイカには、医療的な専門知識はないに等しい。今この場において、自分の無力さが浮き彫りになる。
何を選べば、アトリは生きられる?
今、どうしたらいい?
どうあっても、行き着く先は悪い想像ばかりだ。
タクシーがハザードランプを焚いて路肩に停まった。
「お客さん、どうします? 急病なら、救急車呼びましょうか」
「あの……」
分からない。何も分からない。
頭が痺れて、眩暈がする。背中を汗が流れていく。周囲の音が遠い。ただ、自分の心音が煩く騒ぐだけで。
その時、サイカの腕を掴むアトリの手にぐっと力が入った。
「あっ……はっ……はぁ、はぁ……」
細い肩が大きく上下し、激しく息が吐き出される。勢い余って吸い込み過ぎたらしく、アトリはげほげほと咽せた。
「はぁ……はぁ……びっくりした……」
「アトリ、アトリ、大丈夫? 息できる?」
「う、うん……」
背中をさすってやる。まだ顔色は悪いが、どうにか呼吸はできるようだ。サイカも大きく息をついた。
「大丈夫ですか? 少し窓開けますね」
「はい、すいません……」
運転手もほっとした表情だ。
「もう駅はすぐそこなんですけど。どうします? 念のため病院戻りますか?」
「あ……いえ、たぶん車酔いみたいなものだと思うので……このまま駅までお願いします」
「そうですか。また気分が悪くなったら、すぐに教えてください」
タクシーが再び発進する。先ほどよりも揺れが少なく、丁寧に走ってくれているのが分かった。
程なくして小倉駅に到着する。端末で料金を支払い、車を降りようとした時、運転手から声がかかる。
「様子が落ち着くまで、どこかでちょっと休んだ方がいいかもしれませんね。どうかお大事に、お気を付けて」
「あ……はい、ありがとうございます」
走り去るタクシーを見送って、しばしその場に立ち尽くす。
不意に、泣きたい気持ちになった。
親切にしてもらってしまった。逃亡に利用しただけなのに。
あの人の好い警備員のことだってそうだ。騙して、良いように使った。
姉には迷惑をかけ、ツグミもどうなるか分からない。
自分はいったい何をしているのだろう。
小倉は立派な駅だった。巨大な駅舎の正面からは、モノレールの線路が伸びている。
少し元気になったらしいアトリが、サイカの手を引っ張った。
「あれ、なあに?」
「あれはモノレールよ。レールにぶら下がって走る電車」
「すごい……おそらとんでるみたい。あれにのるの?」
「どうしよう。乗ってみる?」
「うん……」
やはり返事の声は弱々しい。
視界の端に黒色の乗用車が映り込み、ぎくりとする。駅前のロータリーに入ってきた車だ。
よく見れば、『街』の手のものとは車種が違う。だが、例の車もサイカたちを探して付近にいるかもしれない。
すぐ傍の商業施設の裏手に周り、そこにあったベンチに二人並んで腰を下ろした。
「アトリ、身体は大丈夫? どこかおかしいところはない?」
「さっき、むねがいたかったけど、いまはだいじょうぶ。でも、ちょっとつかれた……」
「そうよね、ごめんなさい」
もたれかかってくるアトリの肩を、そっと抱いた。
何のためにこの子を連れ回しているのだろうか。こんな苦しい思いをさせてまで。
アトリのためだと、とてもじゃないが言うことはできない。サイカ自身の意志で、無理を通してやったことの結果なのだから。
幾人もの人々が、座り込んだ二人の前を行き過ぎる。そのたび、いくつもの影が地面を渡っていく。自分の足元に落ちた影は、いっそう濃い。
いい天気だ。まるで他人事みたいに。
車の通る音。誰かの喋り声。何もかもが遠い。
巽のトラックが、懐かしかった。
——このままじゃ、この運転手さんにも迷惑をかけることになると思うよ。
心臓が軋む。
巽には、感謝しきれないほどお世話になった。その恩を仇で返すことになるかもしれない。
あいつらは、サイカに手を貸した彼を決して容赦しないだろう。
自分とアトリさえ『街』へ戻れば。
そんな考えが、つい頭を
つまらない意地でどれだけ逃げ続けたとしても、アトリを待つ運命が結局同じならば。
そこまで思い至ってから、今度は強烈な罪悪感に襲われる。
他でもない、アトリに対しての。
自分で連れ出しておきながら、その命を救う方法も知らず、あまつさえ彼の生きる可能性を諦めようとしている。
身勝手にも程があるというものだ。
——命を弄んだから、報いを受けたのかも。
姉の言葉が、心の脆い場所に突き刺さっている。
そう思うのも、理解できなくはない。
だけど。
「サイカせんせい、どうしたの? だいじょうぶ?」
澄んだ瞳が、不思議そうに見上げてくる。
途端、胸が痛いほど締め付けられた。
どのような都合で生み出されたとて、この命は無垢そのものだ。
しっかりしろ。この子を守れるのは自分しかいない。
私は、『サイカせんせい』なんだ。
一つ、二つ、深呼吸をする。心臓のざわめきを鎮めて、唇の両端をきゅっと上げた。
「えぇ、大丈夫よ。アトリは優しい子ね」
落ち着いて考えよう。今、何ができるのか。
まずは水分補給。幸い、すぐ近くに自動販売機があった。そこでスポーツドリンクを買い、アトリに飲ませる。
それから、休憩しつつ身を隠せる場所の確保。端末から宿泊施設を検索する。駅前のビジネスホテルに空きがあったので、ネットで予約を済ませる。
チェックインは午後三時からだ。まだ一時なので、少し時間がある。
「アトリ、お腹は空いてない? 動ける?」
「わかんない……ちょっとさむい……」
今日はむしろ暑いくらいの日差しなのに。汗が冷えたのか、体温が低下しているのか。
サイカはコートを脱いで、アトリを包んでやった。
その時、ポケットから小さなカードが落ちた。
巽からもらった名刺だ。
身を屈めて、それをそっと拾い上げる。
「それ、おじさんにもらったやつ?」
「えぇ、そうよ」
「なんてかいてあるの?」
「有限会社巽運送。あのトラックの会社の名前ね」
「そっかぁ」
このままの状況だと、近いうちに巽にも被害が及ぶ。彼を守る方法があればいいが、残念ながら自分が取れる手はほとんどない。
だからと言って、このまま知らんぷりはできない。配送の仕事は終わっただろうか。もしかしたら帰り道も危ないかもしれない。早めに連絡した方がいい。
彼に余計な心配はかけない。注意喚起だけをする。
よし。
「アトリ、今からちょっと電話をするわね」
「うん」
腕時計型端末を通話モードに切り替えて、爪の先で名刺に書かれた巽の番号を入力する。
無機質な呼び出し音が何度か鳴った後、回線が繋がった。
『はい?』
男性の声。それが巽のものなのか、即座に判断できない。
『もしもし?』
「あの……巽さん、ですか?」
『はい、巽です』
良かった。
久梨原です、と名乗ろうとするも。
『サイカさん?』
いきなり下の名前を呼ばれ、意図せず心臓がどくんと跳ねた。
咄嗟にうまく返事ができない。なぜか頬がかぁっと火照る。鼓動が、とくとくと速度を上げる。
『サイカさんだろ? どうしたの。何かあった?』
「あ、あの……」
話さなきゃ。ちゃんと、説明しなきゃ。
だが。
『大丈夫?』
温かい、サイカを気遣う巽の声。
その時、自分の中で、何かがぷつりと途切れる音を聞いた。
姿勢を保つのが、急に難しくなる。視界が、一気に滲み始める。
大丈夫。ただそれだけの言葉が、どうしてか返せない。
「巽さん……」
『うん』
彼に注意を促さねばと思って、電話をしたはずだった。あなたにも危険が迫っているから、と。
だが、唇から零れ落ちたのは、全く別の言葉だった。
「……助けて」
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