第23話 紛れない心
初めは快調に流れていた高速道も、日が傾くにつれて車の数が増えていく。
約一時間半ごとに二度、休憩を挟んだ。神戸エリアに差しかかるころには、のろのろ運転になっていた。
「うーん、やっぱこの時間帯は駄目だな。いつものことだけど」
後続車両に渋滞を知らせるハザードランプを十数秒間点滅させた後で、巽はぼやいた。
背にした太陽はどんどん沈みゆき、進行方向からは既に夜の帳が下り始めている。いい天気だったので、暮れの空の透き通るような群青が美しい。
だが、そんな景色を楽しむ心の余裕は微塵もない。もう何度目かの
体調に不安のあるアトリが隣にいることもあり、煙草の代わりにずっとハード系のミントガムを噛んでいる。例え眠気がなかったとしても、思うように進まない道の運転はストレスと疲労が溜まるものだ。
「この先に渋滞名所があるから、その前にメシにしとくか。腹減ってきただろ」
「うん! ぼく、おこさまランチがいいな」
「おう、食え食え。ゆっくり食ってるうちに混む時間帯も過ぎるだろ」
ぱぁっと表情を輝かせるアトリの向こうで、窓の外をぼんやり眺めるサイカにも、声をかける。
「なぁ、サイカさんもそれでいいよな?」
するとサイカは、はっとしたようにこちらを振り返った。
「えっ? お子さまランチ?」
「いや、そこじゃない。次のサービスエリアで夕飯」
「あぁ……そうね、そうしましょう」
立ち寄ったサービスエリアのフードコートは、それなりに混んでいた。広いスペースに充満したざわめきが、却って気分を落ち着ける。
メニューを選ぶ時も、サイカは何となく心ここにあらずという感じだった。
「サイカさん、俺と同じでいい? 親子丼の特盛りだけど」
「えぇ……それでいいわ」
それぞれ注文したものを受け取り、テーブルを囲む。
「サイカせんせい、おいしいね」
嬉しそうにお子さまランチを食べるアトリに、サイカは慌てて笑みを取り繕った。
「えぇ、そうね」
「わぁ! こんどは、くるまのおもちゃがついてるよ! トラックのほうはイカルにあげようかな。ぼくはほんもののトラックにのったから」
「そうね」
だいぶ参っている。そう見えるのは、巽の気のせいではあるまい。
その割に、特盛り親子丼はしっかり完食していたけれど。
午後八時半過ぎ。
食事を終えて、出発する。
読み通り渋滞のピークは過ぎ去ったらしく、数多くの車が連なりながらも適度に流れている。乗用車が多いが、トラックの姿もそこそこあった。
見慣れたいつもの景色。映画のワンシーンになどなりようもない、凡庸なただの日常風景。
誰も彼もが似たような速度で、同じ方向へと走っている。こうしている限り、他の誰とも区別はつかないはずだ。
そう、隠れようもない状態で執拗に追い回された往路とは、まるで違う。
しかし、不特定多数の一部に紛れているというこの状況も、未だ逃亡者であるサイカにとっては用をなさないらしい。
彼女の様子が気にかかり、巽の眠気はいつしか薄らいでいた。
「このままだと、うちに着くのは十二時近くになっちまうな。もう一回どっかで休憩入れるわ。アトリは寝てていいぞ」
「はーい」
大阪エリアを抜け、交通量が減ってくるころには、アトリは夢の中にいた。
時おりサイカがアトリの顔色や脈を確認した。小さな寝息は穏やかだ。心配された体調も、今のところ問題なさそうである。
夕飯を取ったサービスエリアから二時間弱走ったところで、もう一度休憩を入れた。
そこは小ぢんまりしたパーキングエリアで、巽のトラックの他には二台の乗用車が駐まっているだけだった。
熟睡しているアトリを残して、さっとトイレを済ませる。灰皿に立ち寄った巽は、半ば無意識の動作で煙草に火を点けた。
肺の奥深くまで最初の煙を吸い込み、それを吐き切ったところで、声がかかる。
「私にも一本もらえる?」
サイカだった。
あまりに不意打ち過ぎて、リアクションが取れない。
当の本人は、何のこともなく小首を傾げた。
「駄目?」
「あ、あぁ……」
巽は煙草のケースを差し出す。ほっそりした美しい指が、その中から一本を摘まみ上げる。それを彼女は、形の良い赤い唇にそっと咥えた。
黒曜石の瞳が、ちらと巽に向く。意図を察して、煙草の先にライターの火を
サイカは音もなく一口目を吸い、きゅっと窄めた唇から細く長く煙を吐いた。
「……煙草、吸うんだな」
「たまにだけどね。おかしいかしら」
「いや……そんなことねぇよ」
むしろ今の一連の動作、何から何まですげぇ色っぽくて最高でした。
と、表情には一ミクロンも出さず、巽は心の中だけで拝んだ。
人一人分の間を空け、同じ壁を背にして立つ。
しばらくは二人とも、会話もせずにただただ紫煙を燻らせていた。
先に口を開いたのはサイカだ。
「ごめんなさい、ずっと乗せてもらって。巽さんには本当に感謝してる。私一人じゃ、どうにも動けなかったから」
「いいや、別に。誰かと一緒の方が眠気覚ましになっていいさ」
冗談混じりに答えると、ほんの微かな笑みが返ってきた。
「巽さんはいい人ね」
またそれか。返事の代わりに、煙草を吸った。
静かだった。トイレの
それとなく隣を窺ってみても、その横顔は長い前髪で隠れている。
そろそろ沈黙が耐え難くなってきたころ、またサイカが言った。
「私、どこで間違えたのかしらね。どうしたら良かったのかしら」
独り言とも取れる言葉に、巽は視線を下げた。当然ながら、その答えは視界のどこにも存在しない。
立ち昇る二本の煙は、夜の闇へと届く前に霧散する。まるで、誰にも捉えられない幻みたいに。
「姉に言われたわ。私は昔から自分勝手だって。周りを振り回してるつもりも、そうしたいわけでもないんだけどね」
ぎくりとした。
これまでに巽も、彼女に向かって「振り回されたくない」と言いはしなかったか。それも二度。
「知らずにみんなに迷惑をかけたり、誰かを傷付けたりしてたかもしれない」
「そんなの誰だってそうだろ。生きてりゃ周りに迷惑かけることもあるし、人を傷付けることだってあるよ」
「でも……」
サイカは何かを言いかけて、しかし口を噤む。
また、沈黙。
巽が何気なく見上げた空には、昨夜よりやや欠けた月。結局アトリに満月のことを教えそびれたな、とぼんやり思い出す。
首を戻し、ふと気付いた。
「サイカさん、灰」
「……えぇ」
巽が指摘すると、サイカはいつの間にか伸びていた煙草の灰を落とした。そしてまた一口吸って、溜め息のように吐き出す。
「姉の子供が、人質に取られたって」
「うん、聞いた」
「私、思い付きもしなかったの。姉の家族に危険が及ぶかもしれないって。少し考えたら分かることなのにね」
ひたすらに平坦な、温度のない声。
「姉が自分の子供を優先するのは当たり前よ。私、姉の家族を巻き込んでしまった」
「いや、何にしたって、奴らのやり方は酷ぇだろ。いくら我が子のためでも、別の子供を切り捨てるのはキツいよ。それをさせるなんてさ」
大切なものを守ったとしても、他の誰かを犠牲にしたとなれば、決して小さくはない
「ツグミちゃん、無事かしら。全部私のせいね……」
「さすがに警察に通報してるだろ」
「警察にも『街』の息がかかってるのよ」
「うーん。サイカさんたちを足止めさせるためだけの人質だったんなら、そんなに酷いことにはならねぇんじゃねぇかな。しかも自力で逃げ出してきたんだろ? お姉さんの手引きじゃなくて」
父親が『街』のお偉いさんなら尚のことでは——とは、何となく口にできなかった。
サイカは小さく口角を上げた。ぎこちない笑みを貼り付けたまま、ぽつぽつと切り出す。
「私、何してるんだろう。こんな身勝手で、みんなに迷惑かけて。アトリを助けたいけど、どうしたらいいのか全然分からない。こうしてる間にも、また体調を崩すかもしれない。今度はただじゃ済まなかったら……戸籍を取るか『街』へ戻るかじゃなくて、それ以前の問題だったら……」
サイカは乱れかけた呼吸を誤魔化すように、また煙草に口を付ける。だが、今度はわずかに吸い込んだだけで、ほとんど煙の混ざらない震えた息を吐く。
結局、まだ半分ほど残っていた煙草は、音もなく灰皿の底に落とされた。
「ごめんなさい。巽さんにこんなこと……私、あなたの親切に甘えてるわ」
黒髪の端から覗いた赤い唇が、自嘲気味に歪んだように見えた。
あぁ、もう。
巽もまた、ちびた煙草の最後の一口をさっと吸って、それを灰皿の中へと放った。
「俺さ、別に純粋な親切であんたら助けてるわけじゃねぇんだよ。だから、そんなに恐縮される筋合いもない」
つい、突き放した言い方になってしまった。
巽は二本目の煙草に火を点けた。肺の底まで満たした煙を吐き切ると、不思議と腹が決まる。
「サイカさんは、薄々気付いてるんじゃねぇかと思うけど。俺、子供がいたんだ。それも男の子が」
サイカがこちらに顔を向けた。
巽は正面を見据え続ける。自分のトラックが、夜の闇に呑み込まれかけている。
「息子は……三年前に死んだ」
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