第30話 譲れない信念
——成果を上げて、世の中の役に立つ人間になりなさい。
物心ついたころから、繰り返し聞かされた言葉。
姉ほど優秀ではなかったサイカにとって、それは紛うことなき呪詛だった。
自分なりの努力は、望まれた結果には繋がらず、父を落胆させただけ。どれほど藻搔いたところで姉には遠く及ばず、費やした時間が無駄にも思えた。
だが、むしろ。
やる気を挫かれたのは、父を
——女の子なんだから、そこまで厳しくしなくてもいいんじゃない?
自分ではどうすることもできない、生まれついての仕様を理由に免除され得てしまったら、この努力は真に無意味なのではないか、と。
凡庸な女には、それらしい人生がお似合いなのだろうか。
足元から伸びる道は、気付けば勝手に狭められ、その先にあるであろうゴールは影も形も判らなかった。
実家には、実家特有の匂いがある。
身体に染み付いているはずのそれを、帰省するたび実感する。
玄関を開けた途端、その匂いと共に湧き上がってくるのは、一言ではどうにも言い表せない感情だ。
それは恐らく、何百回何千回と繰り返した「ただいま」の瞬間に抱いていた、さまざまな想いの残滓に違いない。
個々の判別が付かないほど入り混じったその中に、今日と似た気分の日はあっただろうか。
例えば。
十代のころ、サイカは何度か家出をしたことがあった。
きっかけはもう思い出せないほど些細なことだったし、大概こっそり彼氏や友達の家に泊めてもらう程度のものだった。母親や姉から端末に心配のメッセージを受けて、数日後にはあっさり帰宅するような。
大それたことをしたつもりでいたのに、結局のところ何も変えられずにすごすごと戻ってきてしまう。
どうしようもなく無力で惨めだった、あの時と同じに違いない。
格子状のサッシの玄関引き戸は、記憶にあるより重い。
久々に帰った姉妹を真っ先に出迎えてくれたのは、母親だった。
「おかえり、二人とも。遠かったでしょ」
昔と変わらない声と笑顔に、張っていた気持ちが少し緩む。
デジャヴだ。しかも、つい最近の。一昨日、すぐ隣にいる姉に出迎えられた時も同じ感じだった。
どちらかというと、チカは父親似、サイカは母親似だ。だが、こうした仕草やそこから受ける印象で、姉と母が似ていると感じる。家族なのだ。
父親は、居間のソファで新聞を読んでいた。サイカたちが部屋に入っていくと、おもむろに顔を上げる。
「おかえり」
よく通る低い声。定年退職後の余生だというのに髪をきっちりと撫で付け、襟付きのポロシャツにスラックスという服装。
常に厳格で、自分にも他人にも甘えを許さない男は、相も変わらず緩みがない。
父の前に立つと、いつも知らず知らず背筋が伸びる。
お前は役に立つ人間か。大人になってからも、そう問われている気がして。
ゴールはいったいどこにあるのだろう。未だに行く先を見失った迷子のようだ。
母が出してくれた麦茶に口を付けたところで、早々にチカが話を切り出した。
「お父さん、電話で説明した件なんだけど……」
「あぁ」
「さっそくだけど、これを見て」
チカは端末を操作して、二つの表を空中投影する。先日サイカが見たのと同じものだ。
「右がツグミ。左がアトリ。同じ血液型でしょ」
「そうだな」
父の返事はごく短い。しかしチカは臆せず続ける。
「お父さんも知ってる通り、パンデミック以降、極端な献血者不足で血液のストックは不十分よ。こんな珍しい血液型ならなおのことね。もちろん、今はアトリもまだ六歳だから献血は無理だけど。これからツグミが成長していくのに、同じ血液型を持つアトリがいた方が、何かと安心でしょう」
父親がわずかに眉根を寄せる。
「その『アトリ』の双子の片割れが死にかけているそうだが、『アトリ』自身は大丈夫なのか」
「今のところ、まだ猶予はありそう。だから妙な実験の材料にするぐらいなら、ツグミのために生かしておいてほしい。そのことを、お父さんから研究所の統括所長に申し入れてもらいたいの」
設立メンバーとはいえ、現在は名前だけの名誉理事である父親には、『街』の研究内容に関する決定権がない。
だが、むしろ大事な孫娘にまつわる忖度の話であれば、実験体の子供一人の取り回しくらい都合を付けてもらえるはずだ、というのがチカの目論見だった。
しかし、彼女はこう続ける。
「……というのは建前よ。私、頭に来てるんだ。大事な我が子を人質として利用されて、黙っていられるわけがない。お父さんだって、そう思うでしょ?」
——アトリを助ける理由、血液型のことだけだと正直弱いわ。お父さんに動いてもらうには、これが一番いいと思う。あいつら、名誉理事の孫娘に手出ししたんだから。
それがチカの立てた作戦だった。
姉の言うことは理解できる。だが、釈然とはしない。
よりによって『街』を作った男に、そんな頭の下げ方をせねばならないなんて。
対する父親は、やはり淡々とした口調で言った。
「『アトリ』に関しては、どうすることが最も役に立つのかということを考えるべきだろう」
鋭い視線がサイカへと向く。
「ところでサイカ。今回の件では、ずいぶん大胆なことをしたと聞いた」
来た……
気付かれない程度に小さく息を吐いてから、サイカは改めて背筋を伸ばした。
「えぇ、そうよ。私は『街』の禁を破って、アトリを連れ出した」
「そうらしいな。国の最高機密である実験体を『外』に出す。それがどんな事態を招くのか、お前には分かっているのか?」
「……私は何の言い訳もしないわ。お父さんの顔に泥を塗るようなことをしたのは、申し訳ないと思ってるけど」
二人の顔を見比べたチカが口を挟む。
「あの、でも、そのおかげでアトリがツグミと同じ血液型だって、きちんと確認できたんだよ。サイカがアトリを連れてきてくれたから——」
「姉さん、いいわ、大丈夫」
姉の擁護の声を遮り、サイカはきっぱりと言った。
「お父さん、少しだけ私の話を聞いてください」
一つだけ、深呼吸する。
逃げない。正面から、立ち向かう。
「確かにアトリは、イカルの比較対象のための個体よ。二人揃ってなきゃ、研究としては意味がないってことも知ってる。でも、役に立つか立たないかで、あの子たちの命を大人が好き勝手するなんて、許されることじゃない」
心臓が騒いでいる。まるで血液が沸騰するように。
「イカルは優れた知能を与えられた子だった。でも、それだけじゃない。小さいなりに大人たちの期待に応えようとして、ずっと気を張ってた。情緒不安定なことが多くて、よく泣いてたのよ。すごく頑張り屋さんで、偉かった」
何もかも覚えている。子供たちの今までの姿を。
「アトリは、いつもイカルを励ましてた。イカルが自分よりずっと難しいことを学んでることを知ってて……少しでもイカルが笑顔でいられるように、面白いことを探してきては、教えてたのよ」
ずっと近くにいたからこそ、分かることがある。
「アトリは、周りをよく見て自分で動ける賢い子よ。それに、いつも前向きだった。あの子の明るさに、イカルだけじゃなくてみんなが励まされてた」
胸の底から何かが湧き上がってくる。
目の奥が熱い。駄目だ、泣くな。
喉が詰まるのを、どうにか振り絞る。
「みんな、いい子よ。どんな子であっても、一人残らず、大事な子なのよ」
——アトリはアトリだ。他の誰かの代わりにはならない。大人が子供を守るのに、何の理由もいらねぇだろ!
一人ひとりの笑顔を、鮮明に思い出せる。
これまで出会った子たちはみんな——お別れをしてしまった子たちも、今も『街』で過ごしている子たちも。
眠りに就いているイカルも、そしてアトリも。
「誰も、他の誰かの代わりにはならない。アトリはイカルの代わりにならないし、逆もそうよ。『実験体』なんかじゃない。役に立つかどうかなんて関係ない。大事な命を持った『人間』なのよ」
それは何も、『街』の中だけに限ったことではないはずだ。
「与えられたものばかりが全てじゃない。誰にどんな可能性があるのか、誰にも分からない。それを尊重せずして、何が未来のためよ」
父親と、ずっと視線が膠着している。決して逸らさない。逸らすわけにはいかない。
「私はアトリを守りたい。それが、自分の果たすべき役目だと思うから。もちろん『街』の禁を破ったことは事実だし、たくさんの人に迷惑をかけた。『街』へ戻って、受けるべき処罰は受けるわ」
「……覚悟の上、ということか」
「そうよ」
この一件は、『ふくしま特別研究都市』の名誉理事たる彼にとっての汚点となるだろう。愚かな過ちを犯した娘を、きっと彼は許さない。
だが、何の後悔もなかった。自分が正しいと思うことをした。教育担当者として、
例え、世の中の役に立つような成果は上げられなかったとしても。悩み抜き、藻搔いたことに意味はあるはずだ。
サイカは静かに息を吸い込み、そして吐き出した。
「だから、親子の縁を切ってください。これは、あなたとは無関係の者が起こした事件です。その代わり——」
そして、正座した自分の膝元に両手を揃えてつくと、深く
「お願いします、アトリを助けてください。アトリの命を、助けてください。この先も、生かしてあげてください。どうか……お願いします」
言葉尻は消え入ってしまった。
喉はからからで、指先が痺れている。
我ながら、なんてみっともない姿だろう。
だけど。
どんなに無力でも。どんなに惨めでも。
自分には、守るべきものがある。
しばらく、誰一人とて口を開かなかった。古い壁掛け時計の秒針だけが、かちこちと時を刻んでいる。
張り詰めた沈黙に耳が痺れ始めるころ、低く重い声が降ってきた。
「サイカ、言いたいことはそれだけか」
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