第6話 現実感を欠いた現実

 三人を乗せたゴンドラは、ゆっくり高度を上げていく。

 大きな窓からは春の陽光が降り注ぎ、閉じた空気がぽかぽかと暖められている。空は抜けるように青く、実に清々しい気分だ。

 こんな殺伐とした会話さえしていなければ。


「え? こっ、ころ……って、え? 何? どういうこと?」

「ごめんなさい、これ以上のことは、ちょっと……」


 サイカは視線を逸らし、軽く俯いた。真ん中で分けた前髪がさらりと零れ、顔の半分を隠す。

 その表情からは思い詰めたような行き場のない焦燥が滲んで見え、巽にはこれ以上の追及が躊躇われた。

 初めははしゃいでいたはずのアトリも、今やサイカにぴたりとくっついて黙っている。


 ただならぬ様子の、か弱い女性と子供。

 二人の抱える事情とは、どんなものなのだろうか。


 例えば。以前、女友達から相談されたことがあった。「このままだと夫に殺される」と。

 あの時の彼女は、警察に相談してDVシェルターに入ったんだったか。

 

 『先生』と呼ばれるサイカが所属する、恐らく学校に似た施設。アトリのような子供たちを世話する場において、施設ぐるみで何らかの虐待行為がある、とか。

 あくまで推測でしかないが、無茶をしてまで逃げ出すほどのことがあったのだろう。


 巽は和らいだトーンで切り出す。


「あのさ……例えば、警察に行くのは? 保護してもらえるかも」

「警察は信用できない。『街』が、捜索願いとか出してるかも。下手したら連れ戻されちゃうわ」

「うーん、そうか……」


 それからしばらくの間、誰も言葉を発しなかった。

 ただ、モーターが回転する鈍い音と、決して心地よいとは言い難い無骨な振動だけが身体に響く。


 いつの間にか、観覧車は頂点に差しかかっていた。


 自分はいったい何をしているのか。

 よく知りもしない女性と子供と三人で、狭いゴンドラに揺られて、穏やかならぬ話を聞かされて。

 これまでの人生を振り返ってみても、一、二を争う意味不明な状況である。


 思えば、観覧車に乗ったのなんていつぶりだろう。

 間違いなく、三年以上前だ。


 ——お父さん、お母さん、見て見て! 車があんなにちっちゃいよ! うちの車はどれ?

 ——やだ、揺らさないでよ。あんまり暴れて、途中で止まっちゃったらどうするの?

 

 不意に心が軋む。

 とっくに仕舞い込んだはずの、というより、そんなことがあったということすら今の今まで忘れていたような記憶だった。


 巽は小さく息を吐く。

 今、向かいに座っているのは、あの時とは似ても似つかない二人。

 アンニュイな雰囲気の色っぽい美人と、色素の薄い人形のような男の子。

 現実に引き戻されても、現実感に乏しい二人だ。


 行き場もなく回り続ける、巨大な円の頂点を通り過ぎたゴンドラは、ただただ高度を下げるばかりだ。

 こうしていても、埒があかない。

 意を決して、巽は再び口を開く。


「なぁ、その子の抱える問題ってのは、例の北九州の病院に行ったら解決できることなのか?」


 サイカがはっと顔を上げ、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「え、えぇ、そうよ。そのつもりで出てきたの……信じてくれるの?」

「いや、やっぱり全然わけは分かんねぇけど。とりあえず、あんたらがそのナントカって病院に行くってことだけは分かった」

「その病院に、私の姉が勤めてるの。アトリにとってはよ。姉に手を貸してもらうの」

「なるほど」


 何らかの事情であの『街』の施設に預けられていたアトリを、お母さんの元に帰すということのようだ。それなら合点がいく。


 巽は何気ない口調で続ける。


「そしたら、やっぱ俺の車に乗ってったらいいよ。そんで、都合のいい場所で降りればいい」

「でも、これ以上あなたを巻き込むことはできないわ」

「あのなぁ、ここでハイさよならってわけにいくかよ。あんたらがどうなったのか、永久に気になっちまうだろうが。小さな子供もいるんだぞ」


 サイカはもう一度だけ瞬きし、美しい形の眉の根をほんのわずかに寄せた。


「……迷惑でしょう?」

「長距離乗ってると、時々ヒッチハイカー拾うんだよ。何の余計な手間もない、ただの仕事のついでだ。いちいち相手の細かい素性も聞かねぇし、目的地で下ろしてそれきりだよ」


 だから、二人にどんな事情があろうと、巽には関係のないことなのだ。


 サイカがじっと見つめてくる。

 何となくむず痒くなって、巽はベンチに乗せた尻の位置を直した。そして身を屈め、今度はアトリと目を合わせる。


「な、坊主。今度は真ん中に座るか? 運転席もよーく見えるぞ」

「えっ、ほんと? まんなかにすわりたい!」


 碧みがかった瞳がぱぁっと輝く。反応が素直で可愛らしい。

 それでもなお、サイカは不安の色濃い声で問う。


「でも、本当にいいの? もしあの人たちがまた来たら……」

「そうなったらなったで、そん時また考えりゃいいよ。とりあえず今日は会社のある名古屋に帰るけど、明日、博多方面へ配送に行く車もあったはずだ。夜のうちに会社を出発して、明日の昼前には向こうに着く予定のな。ちょっと配車を調整してみるよ」


 巽とアトリの顔を見比べること三往復、未だ頬を強張らせたままのサイカは、しかしようやく頷いた。


「……すみません、じゃあ、よろしくお願いします」

「おう、お安いご用だ」 


 三人の乗ったゴンドラは、終着点まで残りわずかのところまで来ている。

 巽は窓からあの二人組の姿を探した。


「よし、今この辺にはいねぇみたいだな、配管工ブラザーズ」

「配管工……? ……あっ」


 無論、小デブとヒョロヒョロのことである。

 サイカが小さく吹き出す。


「やだ、ふふっ……」


 思いがけずウケた。

 巽の視線に気付いたサイカは、取り繕うように表情を引き締め、クールに言った。


「行きましょう」


 ちょうど一番下に到着した頃合いだった。

 扉が開かれ、三人は外へ出た。


「さぁ、急げ!」


 建物や車の陰に隠れつつ、辺りを窺いながら、小走りで巽運送のトラックへと向かう。

 幸い、あの男たちは建物内にいるのか、見つかることなく車に乗り込むことができた。

 助手席にサイカ、真ん中の席にアトリ、運転席には巽。


「おー、良かった良かった。早いとこ出発しゅっぱーつ!」

「しゅっぱーつ!」


 そしてトラックは再び動き出す。

 復帰した高速道はスムーズな流れだ。

 巽の腹に溜まっていたもやもやは、いつの間にか晴れていた。迷ったり悩んだりするのは性に合わないのだ。


 それから幾ばくも走らぬうちに、サイカがぽつりと言った。


「それにしても、どうして私たちがあそこにいることが分かったのかしら。私の端末、追跡できないようにしてあるのに」

「だいたいどの車もこの道使うだろ。あのサービスエリアはでかくて有名だし、当たりをつけて来たんじゃねぇの?」

「まさかこのトラックのことがバレてて、『街』から尾行つけられたんじゃ……」

「だとしても、もう撒いただろ。こんなトラックだらけの道を走ってりゃ、そうそう見つからねぇよ」


 巽はにやりと笑って見せる。


「大丈夫だ。大船に乗ったつもりでいてくれ。つってもトラックだけどな! はは!」

「えぇ……」


 今度は盛大に滑った。

 距離感難しい。


 そこから何拍か置いて、サイカが控え目に呟く。


「あの……ありがとう」


 どことなく気恥ずかしげにも聞こえる声。

 思わず心が浮き立つ。


「いいや、ぜーんぜん。どうってことねぇよ」


 何にしても、この非日常感。二人には悪いけど、ちょっとわくわくする。

 退っ引きならない事情があるようだが、少しでも楽しい旅になればいい。

 この時の巽は、呑気にそんなことを考えていた。

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