第28話 アトリのいた空間

「アトリ、アトリ、苦しいのね」


 サイカは階段の途中でアトリを抱き起こす。アトリは呼吸がままならないようで、その顔面は蒼白だ。


「とりあえず、もっと広い場所に」


 巽はアトリを抱え上げ、リビングのソファまで移動した。


 ウズマキが言う。


「研究所の者を外に待機させているので、呼びましょう」


 かくして、三名の人物がどやどやと家に入ってきた。うち一人が主となり、アトリに対する処置を始めた。


 彼らから少し離れたところで、巽はサイカに訊ねる。


「みんな知ってる人?」

「えぇ……アトリを診てる人が医療班で、あとは姉の後任でアトリの担当になった研究室の人と、もう一人は教育スタッフで私の後輩よ」


 サイカの後輩であるという、三人の中でただ一人の女性が、こちらに目礼してきた。サイカは軽く手を上げて挨拶を返す。


 数分の後、アトリの呼吸は元に戻った。かなり疲れた様子ではあるが、頬に赤みがさし、目だけ動かして自分を取り囲む大人たちの顔を見比べている。


「一度いろいろ検査をしてみないと、何とも……」

「どのみち、上に指示を仰ぐ必要がありますね」


 男性陣がぼそぼそと話をする中、教育スタッフの女性がアトリに声をかけている。アトリは彼女にほんの小さく笑顔を見せた。


「アトリ——」


 傍に行こうとしたサイカの前に、ウズマキが立ち塞がる。


「アトリを連れ帰ります。これ以上の手出しは無用です」

「アトリは……どうなるの」

「それは私の知るところではありません。研究室の皆さんの判断に拠ります」

「まだ調子が悪そうよ。少し休ませてあげてもいいでしょ」

「日のあるうちに戻らねばならないのです。車の中には応急処置できる機器や薬品も積んでいます」

「でも……」

「このまま『外』にいて、またアトリの体調に異状が起きたらどうするんです?」

「それは……」


 サイカは言い淀む。


「いくらスタッフがいても、この場でできることは限られています。我々はアトリを連れ帰らねばならない」

「だったら、私も一緒に行くわ。私がここまで連れ出したんだから」


 アトリを診ていた医療班員が、こちらを向く。


「あの、アトリは寝かせて行った方がいいと思うんですけど……そうなると久梨原さんの乗るスペースがきついです」

「それに万が一、彼女がまたおかしなことをしないとも限りませんしね」


 そう言い添えたのは担当研究員の男だ。

 ただ俯く、女性スタッフ。それ以外の者たちは、油断のない目つきでサイカを睨んでいる。

 裏切り者、もうお前の居場所はない。まるでそう言っているように。


 そこへ巽が強引に口を挟む。


「じゃあさ、サイカさんは俺のトラックに乗ってけば? ちょうど明日は『街』に配送行く日だし。それで問題ねぇだろ?」


 ウズマキが淡々と答える。


「上から指示があったのは、アトリを無事に連れ帰るということだけです。まだ何か事を起こそうというのであれば、久梨原さんを『街』に近づけるわけにはいきません」

「サイカさんが機密をどっかにリークするかもとか、そういうことはいいのかよ」

「特に不都合はありません。彼女一人でできることなど、我々にとって大したことではありませんので」

「いちいち癇に障る野郎だぜ。彼女は俺が責任持って連れてくから、上にそう伝えとけ」

「……伝えるだけならば。あぁ、そう言えば」


 感情のこもらない目が、巽に向く。


「巽運送さんに配送をお願いするのは、恐らくこれが最後になるはずです」


 ついでみたいに言われて、軽く吹き出してしまった。


「まぁ、それはそうだろうな。覚悟はしてたよ。また正式に連絡くれ」

「えぇ。では、我々はこれで失礼します」


 ウズマキは研究所の面々に撤収を促した。

 一か八かで動こうとした巽だが、ナガヤに銃口をぴたりと向けられ、やむなく足を止めた。

 

 女性スタッフに抱っこされたアトリが、「サイカせんせいは?」と問うている。


「アトリ、私も後から行くから」

「おじさんのトラックで?」

「えぇ、そうよ」

「いいなぁ、ぼくもトラックがいい……」


 アトリはまだ少しぼんやりしていて、あまり状況を理解していないようだ。


 例え撃たれようとも、アトリを取り返すべきではないか。

 しかし、自分の下手な動きによってサイカにまで危険が及ぶ可能性もある。

 巽は結局、そのままアトリが連れて行かれるのをただ見つめることしかできなかった。


 『街』の一行は表に駐めていたミニバンタイプの乗用車へと乗り込んだ。

 紅一点の教育スタッフだけが、こちらに小さく頭を下げた。

 アトリは、ずっと不思議そうな顔で巽とサイカを眺めていた。それが、最後に見た彼の姿だった。




 彼らを見送ってしばらく、どちらも無言だった。先ほどまでアトリが寝ていたソファに腰を下ろしたサイカへ、かける言葉が見つからない。


 時刻は午前十時。

 ほんの一時間前までの、賑やかで明るい日曜の朝の空気が、未だこの家のそこかしこに残っている。

 ローテーブルの上には、トラックと乗用車のミニカー。お子さまランチのおまけだ。トラックの方はイカルにあげると言っていたのに。


 ふと、廊下に置きっぱなしの洗濯カゴに目が留まる。サイカがやりかけたままになっているのだ。

 他にすべきことも見当たらない。とにかく何でもいいから手を動かしていたかった。

 なるべく音を立てないように、巽はカゴを持ち上げる。バスタオルや自分のスウェットなどの合間から、鮮やかな赤色が覗いている。

 こんな色の服、あったっけ? 

 考えた次の瞬間、それが何なのか思い当たって、胸を衝かれる。


 昨日買ったばかりの、アトリのTシャツだ。

 つい先ほど、これが着たいと言っていた——


 締め付けられるような息苦しさで、その場に立ち尽くす。

 知輝の時にも、同じような気持ちを抱いたことがあった。こんな想い、二度としないだろうと思っていたのに。


「ごめんなさい、私がやるわ」


 気付けばサイカがすぐ隣にいて、洗濯カゴを巽の手から取った。反応する間もなく、彼女は二階へ上がっていってしまう。

 再び手持ち無沙汰になったので、巽は居間をうろついた。何をするでもなく、端末を弄ったり煙草をふかしたりして時間を潰す。

 するとたちまち、心が不穏なもやに囚われてしまう。


 アトリと出会ってから今までのことを、痛いほど鮮明に思い出せる。

 楽しかった。最初は厄介ごとに巻き込まれた気分だったが、とても楽しい数日間だった。

 すぐに懐いてくれた。よく笑う子だった。大きくなったらトラックを運転するのだと、嬉しそうに言ってくれた。


 どうにかして助けられないだろうか。

 例えば、『街』の搬入口から大型トラックで突っ込んで、混乱に乗じてアトリを連れ出すとか。

 いや、駄目だ。仮にそれが上手くいったとしても、結局また追い回されることになる。身元が割れているので逃げ切れるはずもなく、体調に不安のあるアトリにとってはを先延ばしにするだけだ。

 あるいは、事実をネットにリークして炎上させる? それとて、くだんの実験を止められるか確かではない。


 これが映画の話なら、スーパーヒーローが登場して奇跡の大逆転が始まる頃合いだろう。

 だが今、巽が直面しているのは、フィクションでも夢でもなく、紛れもない現実だ。

 嫌でも実感する。この状況において、一介のトラックドライバーにできることなど何一つないのだと。


 サイカは、三十分経っても戻ってこなかった。

 様子を見にいこうかと考えて、やめた。今はきっと、一人の時間が必要なのだ。

 空の洗濯カゴを手にした彼女が降りてきたのは、それから五分後だった。巽がソファでぼんやりしていたころだ。


「遅くなったわ」

「いや」


 顔も見ずに短く応える。

 彼女の頬に、涙の跡を探すのは悪趣味だ。例えそれを見つけたとして、どうすることもできないのだから。


 しばらくの間、互いに沈黙を共有していた。同時に、アトリのいなくなった空間をも。

 先に口を開いたのはサイカだった。


「巽さん、お昼ごはんどうする?」

「……そうだな、どこか食いにいくか」

「そうするしかないわよね。仕事は、何時に出るの?」

「まぁ、少し早めに、昼過ぎくらいに出ようか。また車中泊になるから、ちょっとでもゆっくり休めるようにさ」

「そうね、そうしましょう」


 平坦なトーンで交わされる、ごくごく日常的な内容の会話。

 それとなくサイカの方を窺う。

 白い顔。伏し目がちな睫毛の影。

 久しぶりに視線が合うと、彼女は口の端だけでほんの小さな微笑みを作った。

 巽は同じ表情を返す。

 二人を繋いでいるのは、せめて同じ哀しみであるべきだ。


 アトリは今どうしているだろうか。

 また体調を崩してはいないだろうか。

 泣いてはいないだろうか。

 何も知らない、無垢な笑顔を思い出す。

 無事に『街』へ戻ったとして、あの子はこの先どう扱われるのだろうか。


 想像しただけで、呼吸が苦しくなる。


 サイカが、巽の隣に座った。二人の間には、一人分の空間。彼女の俯いた横顔を、頬にかかる長い前髪が隠している。


「巽さん、私……」


 今にも消え入りそうな声だった。

 頼りない肩と、細い腕。サイカ自身すら、儚く崩れ落ちてしまいそうに見える。

 巽は少し身を寄せて、彼女の背にそっと手を置いた。たったそれだけで、震えが伝わってくる。

 いつになく距離が近い。このまま腕を回して、抱き締めても良いだろうか。

 潤んだ眼差しが巽に向けられようとした、その時。


 電子音のメロディが、突然響き渡った。


 巽はびくりとして手を引っ込める。

 サイカが自分の端末を見た。


「電話……え? 姉からだわ」

「そうか」


 巽は瞬時に全ての表情を消した。あくまで平静を装い、尻の位置を直して誤魔化す。


 サイカが爪の先で通話ボタンをタップし、応答する。


「はい……えぇ、大丈夫……名古屋の辺りにいるわ。さっきアトリが連れて行かれて……え?」


 長い睫毛が、ぱしぱしと瞬く。


「姉さん、本当に?」


 顔を上げたサイカの瞳には、確かな光が灯っていた。

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