名古屋〜静岡
第25話 何でもない休日
どたばたと、階下から子供の足音がする。
とんとんとん……軽い足音が、リズミカルに階段を昇ってくる。
こういう時は寝たふりを決め込むに限る。
はたして、寝室の扉は勢いよく開け放たれた。
「おーきーてー!」
甲高い
と、と、と。近づいてきたかと思うや、肩を掴まれ揺すられる。
「あーさーだーよー!」
「んー……」
「おーきーてー!」
「まだ……もうちょっと寝かせンゴフゥッッ!」
突然、腹のいいところにものすごい衝撃を受けた。
「はー! やー! くー!」
ちょうど鳩尾の辺りに馬乗りされた上、トランポリンよろしく弾まれている。チビとはいえ、これが結構重い。
「ちょっ、ゥぐふッ、やめッ……
その名を呼ぼうとして、明るい栗色の髪が視界に入った。
——違う。
「おーじーさーんー!」
「ア、アトんグゥッッ!」
「あはははは!」
悪魔だ。天使の顔した悪魔だ。こうなったら——
「オラァッ! そういうことする奴はこうだッ! うりゃァァ!」
「きゃーーーー!」
アトリの腕を取って引っくり返し、ガラ空きになった両腋や脇腹を思い切りこちょこちょしてやった。アトリはジタバタ暴れながら、涙を流して笑い転げている。
あぁ、懐かしいな、この感じ。
「ちょっと、何やってるのよ」
寝室の入り口の方から、涼やかな声がかかる。見れば、呆れ顔のサイカが腕組みして立っていた。
「あんまりアトリを興奮させないで」
「あっハイ、すいません……」
うん? 今の、俺が悪いの?
内心で首を捻るも、反論すべきではないと本能が告げている。
サイカは、目を逸らしながら付け加えた。
「……あと、パンツ見えてるわよ」
……キャー!
慌てて布団を引き上げる。上半身はTシャツだが、下はパンツ一丁だったのを忘れていた。
「アトリも、やめなさい。巽さん、疲れてるのに」
「だってぇ」
「だってじゃないわよ。ずっとトラック運転してもらってたでしょ? ゆっくり休ませてあげて」
「はーい」
そう言われると、何だかむず痒くなってくる。いろいろ恥ずかしい。寝よう。
「おなかすいたー」
「じゃあ、ご飯にしましょう」
「……何?」
聞き捨てならない言葉に、巽はがばっと身を起こす。
「あ、ごめんなさい。冷蔵庫の中のもの、勝手に使ったわ。巽さんの分も作ったけど、また後でも——」
「起きます」
零和十二年四月二十日、土曜日。時刻は朝の八時半。
空き缶やペットボトル、弁当のゴミなどがそこここに詰まれていたダイニングキッチンは、いつの間にかすっかり片付けられていた。
テーブルに置かれた皿の上には、カリカリに焼いたベーコンといい焦げ目の付いたウインナー。茶碗には炊き立ての白飯。どれも湯気が立っている。
「炊飯器やフライパンも借りたわ。ベーコンは賞味期限が一昨日だったけど、しっかり加熱したから食べる分にはたぶん大丈夫よ。本当は野菜や卵もあれば良かったんだけど」
「いやいやいや! 十分十分! うわー……家でまともにあったかいもんが食えるなんて」
前に自炊したのはいつだったか。ベーコンとウインナーが冷蔵庫にあっただけでも奇跡だ。
巽の正面にアトリ、アトリの隣にサイカ。食卓を囲んで座り、全員で「いただきます」と手を合わせた。
ベーコンもウインナーも、脂がじゅわっと溢れてくる。ケチャップすらもないが、薫製肉の塩気が何とも染みる。白飯はつやつやと輝いており、噛み締めるほど優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい!」
「おいしい!」
アトリと同じ調子で巽が続けると、サイカは軽い笑みを零した。
「今朝、アトリもシャワーを浴びたわ。服も……ありがとう」
「あぁ、いいよ。やっぱぴったりだな。良かった良かった」
昨夜、会社に到着したのは日付を跨ぐころだった。トラックだけ置いて帰宅し、大人二人はそれぞれざっとシャワーを済ませた。アトリは熟睡していたので、そのまま寝かせた。
アトリが着ているのは、亡き息子の服である。適当に見繕って出しておいたものだ。
「私の服、乾くかしら」
「少し外に干しとけば、昼前には乾くんじゃねぇかな。今日も暑そうだし」
サイカの服は晩のうちに洗濯して、部屋干ししてある。彼女は今、巽のTシャツとハーフパンツを身に付けていた。サイズは当然ぶかぶかで、余計に華奢に見える。
加えて、どうやらすっぴんらしい。唇はいつもの鮮やかな赤ではなく、少女のように瑞々しい薄紅色だ。クールで隙のない普段の雰囲気とは違い、どこか幼く無防備な印象を受ける。
うん、いい。
いや、逆にまずい。
「……服乾いたら、買い物行こうぜ」
危うく、勘違いしそうになるから。
土曜の昼時のショッピングセンターは、家族連れの客で賑わっていた。
三人は『どこにでもいる男の子とその両親』のような顔をして、人の波に紛れている。
アトリはキャップを被っているので、変に目立つこともない。人が多いせいか、彼は少しそわそわしているようだ。だが、この年頃の男児は総じて落ち着きがないものだろう。
巽もまた、何となく落ち着かない気分だった。
サイカが気になるということはもちろんある。
だがそれ以上に、自分の手を握るアトリの小さな手が、どうしようもなく記憶の溝をなぞってくるのだ。どうあっても、決して埋まることのない溝を。
まずは、二階の洋品売り場でサイカとアトリの着替えを選ぶ。
サイカが女性用の下着売り場にいる間、巽とアトリは子供服を見ていた。
「これがすき!」
アトリが手にしたのは、鮮やかな赤色のTシャツだった。
知輝の服は、青や黒が多かったはずだ。
「赤もかっこいいな。似合うぞ」
「うん!」
その他、当面の生活に間に合う程度の衣服を選び、買い物カゴに入れていく。
アトリが、一丁前のボクサーブリーフを取った。
「こういう、おじさんみたいなパンツにしたい」
「えっ……いいよ」
サイカと合流して、会計を済ませる。
こんな地域密着型のショッピングセンターは彼女にそぐわないのではと思ったが、意外と卒なく必要なものを調達したようだ。見た目のイメージより、ずっと気安い。
一通りの買い物が終わったころ、正午を告げる館内放送があった。
「よし、そこで昼飯食ってくか」
「そうね」
「おなかすいたー!」
洋品売り場の隣にあるフードコートはかなり混み合っていた。
全国チェーンのハンバーガー店と、この地方に根を張るジャンクなラーメンチェーンと、たこ焼きやフランクフルトなどのスナックを売る店があるだけで、テーブル数もさほど多くない。
うまいこと空いた席を取り、サイカとアトリに留守番を任せて、巽はラーメン店の列に並んだ。
昨日の昼もラーメンだったが、このチェーンは地元民の魂に根付くソウルフードであり、一般的なラーメン屋とは別カテゴリーに分類されるので問題ない。
会計もスムーズならば、ベルの呼び出しも早い。あっという間に三人分がテーブルに揃う。
「これ、スプーン? フォーク?」
フォークと合体したような独特の形のスプーンを見て、アトリが首を捻る。
「フォークのところに引っ掛けてラーメン食えるぞ。スプーンで汁も飲める」
知輝が小さい時にも同じ説明をした覚えがある。
「すごい! おいしい!」
「アトリも意外とよく食うよな。たくさん食ってでっかくなれよ」
「おじさんくらい?」
「おう! このくらい筋肉付けて、力持ちになれ」
「トラックくらい?」
思わず吹き出す。昨日の会話の続きなのだ。
「そうだな、トラックくらいな」
「よっぽど気に入ったのね、トラック」
そう言うサイカは、最速で肉入りラーメンと五目ごはんを平らげていた。
「サイカさんはレーシングカーだな」
「え?」
「ほら、食うのめちゃくちゃ早いし」
「は?」
「いえ、何でもないです」
怖い。でも、ちょっと癖になる。
ふと、アトリが店先にあるソフトクリームの置物を指した。
「あれなあに?」
「ん? ソフトクリームか?」
「ソフトクリーム?」
「あ、食ったことない? 甘くておいしいぞ」
「あまくておいしい……」
アトリの表情が輝き始める。
「んじゃ、デザート食うか」
「うん!」
巽は再び店へと向かいながら、知輝はクリームぜんざいが好きだったなと思い出す。
だが、アトリにはあの看板と同じ形のソフトクリームの方が分かりやすくていいだろう。
その場で作ってもらえたデザートを席に持ち帰り、アトリに差し出す。
「ほら、食ってみろ」
クリーム部分を一口齧った途端、アトリは目をまん丸にした。
「つめたっ! わっ、あまい!」
いい反応に、にやりとしてしまう。
「うまいだろ?」
「んまいー!」
クリームだらけの、きらきらした大きな笑顔だった。
昼食後、一階の食品売り場で夕飯の材料を調達することにした。
まともにスーパーで買い物するのは久しぶりだ。普段はコンビニですぐに食べられるものばかり買ってしまう。
「カレーでいいかしら。私、作るわ」
「えっ、ほんと? やった、楽しみだな。トンカツかコロッケも買ってこうぜ」
外は汗ばむ陽気でも、さすがに生鮮食料品があるこの売り場はひんやりしている。
ここもやはり人が多く、しかもカートを押す客が大半なので、狭い通路を移動するだけで骨が折れる。
アトリがサイカに身を寄せた。
「さむい……」
「大丈夫? 少し疲れちゃったわよね。私、一人で買い物してくるから、二人でどこかで待ってて」
「俺、アトリ抱っこしてくからいいよ。サイカさん、カート頼むわ」
「え? えぇ……」
言うなり、巽はアトリをひょいと抱え上げる。
「こうしてくっついてりゃ、あったかいだろ」
「うん」
首に回った細い両腕が、きゅっと巽のTシャツの背中を掴んだ。
アトリは、知輝よりも華奢で軽い。
それでも確かな熱を持ち、小さな心臓がとくとくと鼓動している。
「ほら、バラバラに行動するのは何となく心配だろ。必要なもんだけさっと買って帰ろうぜ」
「そうね」
それはもちろん正当な理由だった。
しかし正直なところ、この三人での時間をもっと味わっていたいと思ったのも事実だ。
失くしてしまった遠い日の幻影ではなく、今ここにある温もりを抱いて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます