名古屋〜北九州
第9話 ヒーローになれなかった男
名古屋と大阪を繋ぐ名阪高速道を、西へ向かってひた走る。
ドラグーンスの青いキャップにはしゃいでいたアトリは、出発後しばらくで寝落ちてしまった。
車内は酷く静かだった。カーステレオは切っている。狭いキャビンを満たすのは、エンジンの振動音やタイヤの擦過音ばかりだ。
道は順調に流れている。この時間帯にいるのは、大半がトラックやトレーラーである。一般乗用車の姿も時おり見かけるが、こんな大型車両に囲まれたらさぞ怖いだろうと、巽は思う。
ちら、と左を窺ってみる。
サイカは助手席の窓から外を眺めているらしく、表情は見えない。
何度かタイミングをやり過ごしてから、巽は声をかけた。
「この先ちょっと行ったところのパーキングエリアに、簡易宿泊所があるんだ。コインシャワーもある。俺はトラックの中で寝るけど、あんたらはそこに泊まるといいよ」
「分かったわ」
「その前にトイレとか行きたくなったら、早めに言ってくれな」
「えぇ」
会話終了。
いや、今はアトリが眠っているから、あまり騒がしくするのは良くない。沈黙に正当な理由があって、ほっとする。
煙草を吸いたい気分だが、休憩所まで我慢すべきだろう。
サイカは今もずっと、巽や他の何かに対して気を張っているように感じる。一緒に食事を摂った時には、確かに少し素顔が見えた気がしたのに。
必要以上のことを喋らない。つまり、こちらのことにも踏み込まれない。暗黙のうちに距離を測って、お互いがちょうどのところで折り合おうとしている。
それはある意味、気が楽ではある。
どのみち、二人と一緒なのは明日の昼ごろまでだ。無事に目的地まで送り届けれられればそれでいい。
日付けは変わって、零和十二年四月十九日、金曜日。
中継地として目指していたパーキングエリアに到着する。
「ほら、あのガソスタの手前にあるのが宿泊所だ。先にチェックインする? 俺、アトリ見とくよ。なんなら抱っこで連れてくし。シャワー浴びたりするなら、それまでここで寝かせとこうか?」
「今日一日のことだし、シャワーは大丈夫。先にチェックインしてくるわ」
あ、シャワー浴びないんだ。
今みたいなセリフは別のシチュエーションで聞きたかったかもしれない。
と、一瞬
時刻は既に夜中の一時に近い。
サイカはさすがに疲れた顔をしていた。キャビンから降りて宿泊所へ向かっていく足取りも、どこか頼りない。
残された巽は、ぐっすり眠り続けるアトリの帽子を取ってやった。淡い栗色の髪がさらりと零れ、
朧げな車内灯の下でも、彼の顔はぼぅっと白く浮かび上がって見えた。
眠っているとますます、人形めいた面差しが際立つ。
初めは独特の雰囲気を持つ風貌に驚いたが、中身はごく普通の無邪気な子供だ。
いや、『普通』とは少し違うか。
お子さまランチを見たこともなかったり、野球というスポーツ自体は知っていてもプロのチームを知らなかったり。
でも、素直ないい子だ。
「んー……イカル……」
アトリがむにゃむにゃと寝言を言い、シートに横たわった。ずっと握り締めていたらしいトラックのおもちゃが、顔の真横にぽてんと落ちた。
外からの明かりが少し眩しいか。巽は運転席と助手席の窓にあるカーテンを引いた。そして作業服の上着を脱いで、アトリにかけてやった。
煙草と灰皿を片手に車を降りる。
空の高い位置にずいぶん明るい月が浮かんでいるのが見えた。満月かもしれない。もし後でアトリが起きたら、教えてやろう。
巽は煙草を咥え、電子ライターで火を点けた。深く吸い込んだ煙で肺を満たしてから、搾り出すように吐き切る。
ずっと、そわそわと心が騒いでいた。
サイカを拾ったこと。
預かった荷物からアトリが出てきたこと。
アトリが怪しげな男たちから追われていること。
母子のような二人と一緒にいることが、過去の記憶をどうしようもなく呼び起こすこと。
抱え込んだ面倒はどこか楽しくもあり、非日常への不穏な予感とほのかな期待感が入り混じっていた。
トラックドライバーである自分は、きっと彼らの物語の端役でしかない。
表舞台に立つヒーローを目指す選択肢は、遥か昔に捨ててしまった。
だけど、困っている誰かに手を貸すことくらいはできるはずだ。
不意にその時、ずきりと胸に痛みが走った。
——嘘つき!
蘇る遠い声。
自分を見上げる、涙に濡れた大きな目。
灰皿に山盛りの吸殻が一つ、ぽろりと崩れてはっとする。
地面に転がったそれは、まるで惨めな芋虫みたいに見えた。
巽がしようとしているのは、ただの独りよがりな自己満足なのではないだろうか。
今さら善人ぶったところで、本当に手を伸ばすべきだったものには、もう二度と届きはしないのに。
いつの間にか短くなった煙草を、捻じ込む隙もない灰皿。
吐き出す煙で溜め息を誤魔化すうち、自分自身への言い訳ばかりが上手くなってしまった。
巽は手の中のちびた一本を地面に押し付け、火を消した。ついでに先ほど零れた吸殻も拾って、喫煙所へと向かう。
灰皿の中身を空にすれば、気休め程度には胸がすく。
いずれにしても、終わってしまったことはどうしようもないだろう、と。
自分の車に戻ろうとしたところで、あることに気付いた。
誰かが、巽のトラックの周りをウロウロしているのだ。
人影は二つ。二人とも暗色のナイロンジャケットにチノパンという、取り立てて個性のない服装だ。
だが、見覚えあるそのシルエットに、一瞬で全身が緊張する。
なぜ、あいつらがここにいるのか。とっくに諦めたものだとばかり思っていた。
というか、どうやってここを突き止めたのだろう。
巽は他の車両に身を隠しながら静かに接近した。
すると、切れ切れに二人の会話が聞こえてくる。
「相変わらず感度が不安定だが……やはりこのトラックで間違いなさそうだ」
「また渋滞に巻き込まれないうちに、早く……」
巽は荷台の後ろから回り込み、声を張った。
「すんません! うちのトラックに何かご用ですかね?」
男たちが、びくりと身を硬直させる。
「あ、あなたは……」
「……あぁ、昼間の! これは奇遇な! その節は申し訳なかったですね」
白々しいほどに大袈裟な身振りを交える。あの目立つダークスーツは着替えたのだろう。巽が天ぷら蕎麦をぶち撒けて汚したから。
露骨に訝しんでは、却って怪しまれるかもしれない。全く何も知らない
「それで、どうされました?」
さぁ、どう出るか。
二人の男が、互いにちらりと目配せをする。口を開いたのは小デブの方だ。
「実は、人を探しておりまして。女性と子供の二人連れなんですが。何かご存知ないですか?」
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