第8話 会社と自宅と子供服

 三人の乗ったトラックは名古屋方面へと向かっていた。巽にとっては、目を瞑っていても走れるくらいによく知った道だ。

 宵闇をヘッドライトで切り裂きながら進みゆく。そうして目的のインターを下りたところは、正確に言えば名古屋より北に位置する小牧市の物流街である。


「もうすぐ着くぞ」


 梱包業者やメーカーの倉庫、大手運送会社のターミナルが並んだ一画。その片隅に、巽の会社はあった。

 ゲート代わりになっている三.八メートルの高さ制限枠をくぐり、敷地内へ入る。巽が今運転しているウイング車だけでなく、平ボディー車に荷物を積むこともあるので、法定の積載高を超えないように設置しているものだ。


 『有限会社巽運送』という看板が掲げられた、平屋建ての小さな事務所。その横に数台のトラックが並ぶ。

 アトリが、わぁっと歓声を上げた。


「おんなじトラックがいっぱい!」

「本当は全部で十二台あるんだけど、今はだいぶ出ちまってるな」


 巽は空いているスペースに車を駐めた。


「ちょっと雑用だけパパッと済ませるから、中入ってくれ」


 そう二人を促してキャビンから降り、事務所の中へと案内した。

 時刻は午後八時過ぎ。既に事務員は退勤している。一つしかないパソコンの前に、小谷という若手ドライバーがいるだけである。


「おう、ただいま。お疲れさん」

「あっ、社長。おかえりなさい……って、あれ?」


 すぐにサイカとアトリの姿に気付いた小谷は、二度三度瞬きした。


「えっと、あの、社長、こちらは?」

「ちょっとな、縁あって乗せた。北九州まで行くんだって」

「へぇぇ」


 巽はサイカたちを振り返り、簡素な応接スペースを指す。


「二人とも、適当にあの辺座って。小谷、水でも出してやって」

「はいっ!」


 小谷はウォーターサーバーから紙コップ二つに水を汲み、ローテーブルに置いた。


「どちらから来られたんですか?」

「……福島の方です」

「へぇ、ずいぶん長旅ですね」


 へらへらと愛想よくサイカに話しかける小谷。気のいい男だが、あまり深入りされない方がいいかもしれない。


 巽はそれとなく小谷に呼びかける。


「小谷ー、日報入れた?」

「はい、さっきちょうど入れ終わったとこです。あっ、保存してなかったかも」

「んじゃ保存して。俺も入れるからさ」


 小谷のデータ保存が完了すると、巽は入れ替わりでパソコンの前に座り、新しく運転日報のフォームを開いた。

 運転日報とは、出発の日付け、走行区間と所用時間、仮眠のタイミングなどを記録するものだ。後からでも良いが、乗務が連続する時は早めに入れておかないと忘れてしまう。


「あー、そろそろ給料の計算もしねぇとなぁ」

「佐藤さん辞めてから、やっぱちょっと事務処理溜まっちゃってますよね」

「誰かいねぇの? 事務やってくれそうな人」

「いやー、俺のツレ、馬鹿ばっかなんで」

「んー……どっかに募集かけるか」


 二人いた事務員のうちの一人が少し前に退職してしまったため、内部事務も人手不足だ。


「そうだ小谷、明日お前、博多の配送担当だったよな。それ、俺が行くわ。もう集荷済みだろ。車貸してくれ」

「えー、何すかそれ。社長、こんな綺麗な人と長距離ドライブしたいからって、ずるいでしょ。それだったら俺行きますし」

「馬鹿、いろいろ事情があんだよ。だいたいお前、新婚だろうが。嫁さんにチクるぞ」

「ちょ、冗談ですって」

「明日は有給にしとくから、たまにはちゃんと家のことをしろよ。嫁さん、今つわりキツいんだろ?」


 日頃からしょっちゅう妻のことを話題に出す男は、渋々という顔を作りながらも、快く了承してくれた。

 ホワイトボードの乗務予定表を書き換え、小谷を先に帰らせる。自分の運転日報の入力も終わると、巽は事務所内の戸締まりを一通り確認した。


「ごめん、着替えするのに一瞬帰っていいかな。俺んち、ここから車で五分くらいなんだよ」

「えぇ、構わないわ」


 サイカとアトリを連れて、自家用車に乗り込む。四年ほど前に新古車で買ったSUVだ。

 街頭の極端に少ない夜道を走ることわずか数分、似たような形の家ばかりが集まった住宅街に入る。

 その中の一軒。知らなければ他の家と見分けもつかない、小ぢんまりした4LDKが、巽の自宅である。


「どうぞ、上がって」

「えっ、でも、ご家族は」

「あぁ、大丈夫。一人暮らしだから」

「へぇ……?」


 スニーカーやらサンダルやらが無造作に置かれた玄関を上がり、二人をリビングダイニングに通す。

 恐ろしいほど、しんとした家だ。

 電気のスイッチを押すと、あまり片付いているとは言い難い部屋が照らし出される。

 ビールの空き缶やお茶のペットボトルの殻が並ぶテーブル。ただの物置き台と化したキッチンのIHコンロ。脱ぎ捨てた衣服が散乱していないだけ、今日はまだマシである。


「ごめん、すぐ着替えてくる」


 二人を一階に残し、階段を上がる。

 締め切った寝室には室内干しの服が吊るしっぱなしになっており、部屋全体が湿気でムッとしていた。

 巽はハンガーにかかった服の中から、今着ているのと同じ作業着と、下着や靴下を選んだ。上から下まで着替えても外観上は何の変化もないが、一日汗をかいた服を交換して、幾分さっぱりした心持ちになった。


 本当はシャワーも浴びたいが、あまり二人を待たせるのも悪い。

 巽はふと思い立ち、二階にあるもう一つの部屋へ赴いた。クローゼットの中に置いたケースからあるものを取り出すと、急ぎ足で階下へと戻る。


「アトリ、これ着てみろ」


 巽から手渡されたものを広げて、アトリは目をぱちくりとさせた。


「これなあに?」

「洋服だよ。ちょっと防虫剤臭いかもだけど」


 アトリが不思議そうに眺めるそれは、百二十センチサイズの長袖Tシャツとハーフパンツだ。Tシャツは藍色で、左胸部分にスポーツメーカーのロゴが小さくプリントされているシンプルなデザインである。


 サイカは訝しげな視線を巽に向けた。


「あの、この服は……?」

「あぁ、ちょっとな、たまたま家にあったやつ。全身真っ白よりいいだろ」

「えぇ……」


 サイカに手伝ってもらって着替えを終えたアトリは、自分の服装をまじまじと見下ろした。


「あおいろのふく、はじめて」

「サイズぴったりだな。男の子っぽくなったじゃねぇか。かっこいいぞ」

「うん、かっこいい!」


 色白の頬がぱっと華やぐ。はにかんだような表情はやはり可愛らしいが、やっとどこにでもいる男の子の格好になった。


「それからこれも」


 巽はアトリの頭にキャップを被せた。鮮やかな青色に、白で『D』の文字の刺繍が入っている。


「ぼうし?」

「そう、ドラグーンスの帽子だ」

「ドラグーンス?」

「セ・リーグのな」


 アトリはきょとんとしたままだ。


「野球、知らない?」

「やきゅう、しってる。バットとボール」


 なるほど。

 自分を見上げてくるアトリの頭を、巽はぽんぽんと撫でた。


「野球の上手な人が被ってるのとおんなじ帽子だよ。お母さんとか、誰か家族の人にキャッチボールでもしてもらいな」

「かぞく……?」


 そこへサイカが口を挟む。


「あの、本当にいいの? この服って……」

「ん? いいんだよ。どうせ誰も着てない服なんだ。こうして着てもらった方が服も本望だろ」


 巽が有無を言わさぬ笑みで応えると、合わされていた視線がわずかに落ちた。


「そう、それなら良かったけど。ありがとう、また洗濯してお返しするわ」

「あー、そうだな。まぁ別に、覚えてたらでいいよ、全然」


 リビングの壁掛け時計に目をやれば、時刻は既に九時近い。


「さぁ、そろそろ行くか」


 巽は二人と連れ立って、事務所へと戻った。

 自家用車を降り、小谷のトラックに乗り換える。


「あ、ケースもお願い。少し荷物が入ってるの」

「おぉ、忘れるとこだった」


 アトリの入っていたケースも荷台の空きスペースに積み替え、ラッシングベルトで固定した。


「悪かったな、バタバタして」

「いいえ、お世話になってるのはこっちだから」


 少し疲れた顔に、唇の両端だけがわずかに上がる笑みが返ってくる。

 余計なお節介を焼いている自覚はあった。

 でも、後悔するより余程いい。


「さぁ、出発だ」

「しゅっぱーつ!」


 すぐ隣に座る、自分より目線の低い青色のキャップ。

 無邪気な甲高い声に、人知れず胸が詰まる。


 巽はトラックを発進させた。

 いつも通り、ただ呼吸をするように。

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