第31話 進むべき道へ進め

 ——言いたいことはそれだけか。


 父の声は、地を這うように響いた。表面上は静かでも、腹の中ではさぞや激しい怒りが渦を巻いていることだろう。


「えぇ、そうよ」


 サイカはさっぱりと応える。言い切った。間違いなく。


 もうこの家には二度と帰ってこられなくなるかもしれない。『街』に戻ったところで、自分の居場所はないかもしれない。

 それでもいい。アトリがこの先も生きられるのなら。全てを失っても、アトリを守ることができるのなら。


 静寂を破ったのは、重い溜め息だった。それを吐き出した当人が、独り言のように低く呟く。


「チカから連絡を受けるより前に、実は『街』の者から報せがあった。逃亡したお前に追っ手をかけていると。機密保持のための警備部員がどんな連中か、俺は知っている。やり方を選ばない奴らだ」


 そして父親は、掠れた声で言った。


「どれだけ、心配したことか」


 サイカは一つ瞬き、眉根を寄せた。聞き間違いかと思った。


「……え?」

「お嬢さんの命の保証はできかねると、そう言われた。そのための縁故採用だからな。機密が漏れた際のも、そうでない者だといろいろ面倒だ。縁故で、かつ優秀な人材を集めるべきだと、発案したのは俺だったんだ。だから、本当はとうに覚悟していたはずだった。だが……」


 父の瞳がわずかに揺らぐ。


「迷惑などと……縁を切るなどと。馬鹿言うんじゃない。我が子が危険に晒されている時に、名誉や立場などにこだわる余裕があるとでも思うのか。そもそも第一線を退しりぞいた身だ」


 上手く返事ができなかった。返事どころか、呼吸さえも。


 それまで黙っていた母親が柔らかいトーンで言う。


「お父さんね、ものすごく心配してたのよ。サイカの端末も電話繋がらないし。あちこち連絡したり、無駄に家の中をうろうろしたりしてね」

「母さん、そういうことは言わなくていい」


 ついと視線を逸らした父親が、ぼそりと発した。


「……ともかく、無事で良かった」


 途端、かぁっとサイカの頬に血が上った。

 むず痒さを伴った羞恥。この歳にもなってと思う間もなく、視界が滲み始める。


「あ、あの……ごめんなさい」

「いや」


 父親は既にリラックスしているように見えた。表情の変化はわずかだが、サイカにはそれが分かる。ずっと、その顔色を窺ってきたから。


「さて、『アトリ』に関してだが。話を聞く限り、例の移植手術は研究の根本的な問題解決にはならないものだろう」

「えぇ、もちろん」

「やろうがやるまいが同じことのせいで、スタッフから逃亡者を出して騒ぎになっているなら、その計画がそもそも問題だったのだ。研究室全体で子供たちを見ているのだから、実験の有用性を関係者全員で納得した上で進めるべきだ。そうでなければ、行うべきじゃない。無用なトラブルはリスクに他ならないからな」


 実に真っ当な、そしてこの父親らしい意見だ。


「今の統括所長は俺が院生時代に面倒を見た後輩でもあるから、個人的な話ならできる。……ツグミの血液型のこともあるし、『アトリ』のことは頼めるはずだ」


 そこまで聞いて、サイカはようやくほっと息をつく。背筋から一気に力が抜けて、その場に頽れそうになる。

 動向を見守っていたチカが、頬を緩めて言った。


「ありがとう、お父さん。ツグミ、じぃじに会いたがってたよ。今度は連れてくる」

「ツーたん……」


 父親は感極まったような表情で天を仰いだ。


 ……ツーたん?


 よく見ると、部屋のあちこちにツグミの可愛らしい写真が飾ってある。『じぃじ』とのツーショットでは、この厳格な男が信じられないぐらいデレデレの顔で写っており、サイカは思わず二度見した。


 そんな一面もあるらしい彼が、今は至極真面目なトーンで切り出してくる。


「ただ、そのためにも、サイカは俺の口添えで『街』へ戻るというていにした方がいいだろう」

「それは……そうね」


 名誉理事から『街』に、アトリのことを頼むのだ。通すべき話の筋というものがある。それはサイカにも理解できる。釈然とはしないが。

 父親は、サイカの胸の内を読んだように続ける。


「お前は自分の果たすべき使命を貫いた。自分の行動の責任を取る覚悟もあるのだろう。それはもちろん承知の上だ」

「お父さん……」


 認めてもらえた、と思った。

 だが、そうなってはっきりと認識する。

 父に認められることは、ゴールでも何でもない。


「お前は既に、自分の力で自分の道を進んでいる。その道は、まだ続いているだろう」

「……はい」


 ——彼女一人でできることなど、我々にとって大したことではありませんので。


 ウズマキに言われた。確かに、そうかもしれない。

 だけどそれは、やらなくてもいい理由にはならない。


 サイカはまっすぐ前を向く。


「お父さん、私は『街』へ戻ります。あそこにはまだ子供たちがいるから。私、どうしてもやりたいことがあるの」

「分かった。やり通しなさい」


 はい、と返事に意気を込める。


 初めは、父親に言われて就いた職だった。

 だが気付けば、譲れないものばかりになっていた。

 自分で見つけた。ようやく分かったのだ。真に自分が果たすべき役割を。


 チカが口を挟む。


「ねぇ、『街』の子供たち、鳥の名前を付けられてるでしょ。どうしてだか分かる?」

「え……? 籠の中の鳥だから?」

「やだ、違う違う」


 その声は笑み混じりだ。


「翼を与えられた雛鳥たち。そういう意味よ。いつか羽ばたいていけるようにと願いを込めて。だけどそれには、ちゃんとを教えてくれる人がいなくちゃ」


 言われてみたら、『ツグミ』だって鳥の名前だ。チカがどんな想いで子供の名を選んだのか、ようやく知る。


 姉の手が、サイカの肩に触れた。


「サイカにしかできないことがあるはず。せっかく遺伝子設計から教育設計までセットにして一から人間を育てる研究施設なんだし、優秀な教育スタッフが必要なはずよ。何より、子供たちが待ってるんじゃないの? 『サイカ先生』を」


 ——せんせい! サイカせんせい!


 何度、そう呼ばれたか分からない。

 何度でも、そう呼ばれたいと思う。


「そうね。ありがとう、姉さん」

「お礼を言うのはこっちよ。私が作った子供たちを、ずっと気にかけてくれてありがとう」


 望まれた通り優秀で、素晴らしい成果を上げ、しかし伴侶を見つけてあっさり職を替え、なおも逞しく生きる姉を羨ましいと思う。

 もしかしたら、互いにそうなのかもしれない。ないものねだりだ。きっと完全には分かり合えないだろう。

 でも、こうして笑い合える。それで十分だ。


 サイカの胸には今、小さな炎が灯っている。野望にも似たそれを身の中心に据えて、父親に向き直る。


「私、そろそろ行くわ。アトリと約束したの。私も後から『街』へ行くって」

「そうか、気を付けろよ。こちらはすぐにでも『街』と話をつけておく」

「お願いします」


 決して言葉は多くないが、背中を押してもらった気がした。

 いろいろひと段落ついたら、父親ともっと話をしてみたい。


 母親が問うた。


「サイカ、『街』まではどうやって行くの? 新幹線?」

「ううん、長距離トラックよ。『街』の配送担当の運転手の人が親切で」


 姉が即座に反応する。


「え? あの運転手さん?」

「そうよ」

「へぇ、本当にずいぶん仲良くなったんだね」

「まぁ」


 何となく物言いたげなチカを、サイカはさらりとかわす。


 この、やけにふわふわした、心が浮き立つような感じは何だろう。

 あの時、控えめに背中に置かれた巽の手は、とても大きくて温かかった。


「……でも、それこそ本当に迷惑かけちゃったのよ。私が巻き込んだせいで、『街』の配送契約も切られちゃうみたいだし」

「小さな運送会社だろう。『街』の外に繋がる物資配送には、どうにでもしやすい小規模の業者をわざわざ選定しているんだ。何か問題が起きれば、そうなるだろうな」

「あぁ、なるほど……」


 『ふくしま特別研究都市』には巽運送の他、いくつかの業者が出入りしているが、いずれも小さな会社だ。

 そこでふと、ウズマキの言葉を思い出す。


 ——巽運送さんに配送をお願いするのは、恐らくこれが最後になるはずです。


 何かが引っかかった。

 額面通りに捉えても、納得はできる。だが、問題のある業者を敢えてもう一度『街』に近づかせるのか。即座に契約終了と言い渡せないこともないだろうに。

 それに、なぜ「恐らく最後になるはず」などと曖昧な言い方をしたのか。彼がただの警備スタッフで、最終決定は総務部が下すから?


 巽は秘密を知ってしまった。

 口止め料を受け取らなかった。

 そして、これからサイカを『街』へ乗せていこうとしている。


 まさか。


 とある可能性に行き当たって、一気に血の気が引いた。居ても立ってもいられなくなり、サイカは腰を浮かせる。


「サイカ、どうした?」

「あ、あの、お父さん……もう一つだけ、お願いしたいことがあるんだけど——」




 電話でタクシーを呼び、清水港まで向かう。

 時刻は午後五時。日差しは緩み、夕暮れの気配がある。

 後部座席で揺られるサイカの心臓は、ずっと嫌な軋みを上げていた。

 勘違いであればいい。

 本当に巽運送がただ今回限りで配送担当を外れるというだけであれば。


 サイカは腕時計型端末から、巽の番号へ電話をかける。

 受話口を耳にあて、祈るような気持ちで待つ。

 ……出ない。

 呼び出し音を十回数えたところで、一旦発信を切った。


 巽とは、午後六時ごろを目安に落ち合う約束をしていた。もしかしたらまだ積み込み作業の最中で、電話に出られないのかもしれない。

 気を取り直し、今度はメッセージを送ってみる。


 ——今そちらに向かっています。何か変わったことはない?


 しばらく画面を見つめていても、既読マークが付く気配はない。

 車窓の外を流れる景色に目をやりつつ、反応のない端末を持て余す。

 道は空いていたが、いちいち赤で足止めしてくる信号が苛立ちを煽る。

 このまま行けば、あと五分ほどで巽から聞いていた倉庫街に着くはずだ。だが、そのわずかな時間すらもどかしい。


 サイカはもう一度、巽に電話をかけた。

 長期戦を予想した呼び出し音は、意外にも二度目の半ばで途切れ、回線が繋がった。


『サイカさん!』

「あっ……巽さ——」


 喜び勇んだサイカの声は、しかし巽の叫びに遮られた。


『来るな! 逃げろ!』

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