第26話 二人の距離感
ショッピングセンターの帰りの車の中で、アトリはうとうとし始めた。
「アトリ、眠いのか? 帰ったら少し昼寝すりゃいいよ」
家に着き、二人に貸した二階の子供部屋へアトリを連れていく。敷きっ放しの布団に横たえると、彼はすぐにすぅっと寝入った。
色素の薄い肌が、いっそう白く思える。まさか体調が悪いのではと胆が冷えたが、脈や呼吸を確認したサイカは頬を緩めた。
「熱もなさそうだし、今のところ異状なしよ。ああいうところは初めてだったから、疲れたんだと思うわ。というか、朝五時半から起きてたしね」
「え? そんなに早く?」
「そうよ。起きたら知らない場所だってびっくりして、巽さんの家だって教えたらまたびっくりして。そこからずっとはしゃいでて……」
言いながら、サイカは欠伸を手で押さえる。
「サイカさんも昼寝したら? 寝不足だろ」
「うーん、でも、今寝たら起きられなくなりそう。カレー作らなきゃ」
「まだ二時だよ。ちょっとゆっくりしようぜ。俺も眠いし」
「……そうね」
サイカは床に座り込んだまま、どことなく思案顔でアトリを眺めている。
異状がなくとも、心配なのだろう。アトリが眠ってしまった今、まるで太陽が隠れたように、サイカの表情は翳って見えた。
巽もまた、アトリを間に挟まずして敢えてサイカに接する理由を持っていなかった。不意に訪れた沈黙をどうにもできず、意味もなく視線を彷徨わせる。
ここは元々、
知輝がここで勉強している姿も思い出せない。その事実が、ちくりと胸を刺す。
どうにもこうにも、うまく手を付けられないものばかりだ。
巽はわざと「どっこらしょ」とおっさんくさい声を出して立ち上がった。
「んじゃ、俺はちょっと昼寝してくるわ。月曜はまた『ふくしま特別研究都市』だからな。明日の夕方には出発して、品物の集荷に行かなきゃなんねぇからさ。サイカさんも休みなよ。他人の家じゃ落ち着かねぇかもしんねぇけど」
「えぇ、ありがとう」
サイカの淡い笑みを横目に、巽は子供部屋を後にした。
巽が目を覚ました時、寝室の窓の外はまだ明るかった。腕時計型端末で時刻を確認すると、午後五時半過ぎだ。
階下から、甲高い子供の声と軽い足音が聞こえる。それから、食材を炒めるいい匂い。
あぁ、だから目が覚めたのか、と合点がいった。いつもは際限なく泥のように眠り込んでしまうから。
一階へ降りてダイニングキッチンの扉を開けると、サイカが鍋をコンロにかけていた。彼女の周りを、アトリがうろうろしている。
「あっ、おじさんだ」
「おう、おはよ。悪い、ちょっと寝過ぎた」
「いいのよ、煮込むのにまだ少し時間かかるから」
炊飯器から、勢いよく湯気が吹き上がり始める。ごはんのほの甘い匂いが辺りに漂う。
なぜか胸の奥が苦しくなった。
家に自分以外の誰かがいて、衣食住を営んでいる日常の空気感。いつか諦めてしまったものだ。
何となく、その場に立ち尽くしてしまう。一時的とはいえ、それをまた手にして良いものなのか、と。
そんな巽の手を、アトリが掴んだ。
「ねぇねぇおじさん、ぼくもおてつだいしたんだよ! にんじんをね、ほうちょうでね、こうやって、こうやって、こう!」
興奮気味のアトリが、身振りで人参を切って見せてくる。
「おー、お手伝いしたか。えらいなー」
「それからねー、トマトをねー、十二こ! ぼくがかぞえて、みどりのやつをぜーんぶとってねー、こうやって、こう! よっつずつおさらにいれて——」
今度はミニトマトのヘタを取るジェスチャーだ。放っておくといつまでも続きそうである。
「アトリ、ルーを入れて」
「はーい!」
ばたばたとサイカの隣へ戻っていく。
無性に笑いがこみ上げてきた。
「めちゃくちゃ楽しそうだな、アトリ」
「ずっとこの調子よ」
苦笑混じりのサイカの表情に、巽はこっそりほっとした。
かくして、完成したカレーライスとサラダ、惣菜のトンカツが食卓に並んだ。
「いただきます!」
全員で手を合わせることも、すっかりお馴染みになった。
巽はスプーンで一口目を掬う。ごろっと大きい人参とじゃがいもが舌の上でほろりと砕けた。リンゴとハチミツの入ったルーは甘口だが、ほどよくスパイスが効いている。ごはんの甘味がよく引き立ち、臓腑に染みる。
「うまい!」
「うまい!」
今回は巽が先だった。真似したアトリはにこにこしている。
サイカが目を細めて言った。
「おかわりあるからね」
「はーい!」
食べ始めると止まらなくなる。初めからかなりの大盛りだったはずだが、巽は五分も経たぬうちに平らげてしまった。
サラダはレタスとキュウリとミニトマトだ。アトリの説明通り、ミニトマトは一人四個ずつ器に盛られている。瑞々しい野菜の歯応えと和風しょうゆ胡麻ドレッシングの酸味で、口の中がさっぱりする。
買ってきたトンカツはかなり肉厚だ。衣がサクサクしている。それを、カレーソースに絡めて食べた。
巽とサイカで一回ずつ、それぞれカレーのおかわりで席を立った。一方のアトリは、一杯で十分だったようだ。
二十分ほどで、全ての皿が空になる。また全員で手を合わせ、「ごちそうさまでした」と声を揃える。
「カレーおいしかったー! まいにちたべたいぐらいおいしかったー! あしたもカレー?」
「明日は……まだ何も決めてないわ」
「まぁ、またゆっくり考えようぜ。明日のことも明後日のことも、その先のことも」
巽はのんびり言った。サイカが遠慮がちに視線を寄越してくる。
「巽さん……」
「やっぱさ、みんなで食うメシはうまいよな。うまいもん食った時に『うまい』って言い合えるのはいいことだ。な、アトリ」
「え? うん!」
阿呆みたいに当たり前の発言に、よく分かっていない感じのアトリが元気よく返事する。
サイカが視線を逸らしながら、小さく唇を尖らせた。
「……このくらいしか、できることもないからね。こんなもので良ければ、いつでも作るわ」
照れるとこういう反応になるらしい。可愛いなと思ったが、心の中にそっと留めた。
一夜明け、零和十二年四月二十一日、日曜日。
巽は午前七時半に目を覚ました。忍び寄ってきたアトリに飛び乗られる直前だった。
三人で、スクランブルエッグと焼いたベーコン、そしてトーストという朝食を囲んだ。
アトリがいると、ずっと賑やかだ。
「きのうのあかいTシャツがいい!」
「一回洗った方がいいわ」
そんなやりとりがあり、アトリはまた知輝の服を着ている。
洗濯物をサイカに任せ、巽は出かける準備をした。自分の下着に触れられる気恥ずかしさはあるが、逆よりよほどマシだろう。
時刻は午前九時になろうかというところだった。
「おじさん、どこいくの?」
「ちょっと会社にな」
「えー、ぼくもいきたい!」
「すぐ帰ってくるよ」
サイカが首を傾げる。
「出発は夕方じゃなかった?」
「そうなんだけどさ。給与支給の準備で、従業員の勤務状況をチェックする作業があるんだわ。前まで事務員さん二人いたんだけど、一人の人が親御さんの介護のために辞めちまったもんでさ。次の人を採るまで、そういうのも俺の仕事で……」
そこで、ふと思い付く。
「あ、そうだ。サイカさんさ、もし良かったらうちの事務員やらねぇ?」
「……え?」
「サイカさんが来てくれるなら俺も助かるよ。まぁ、国の最先端の研究所からしがない運送屋の事務なんて、あり得ねぇくらい落差が酷ぇけどな」
ははは、と笑い飛ばす。
だが、サイカは不意に虚を突かれたような顔で、そんな、と小さく頭を振った。そして掠れた声で呟く。
「あの……ありがとう……」
大きな瞳に、じっと見つめられる。それが心なしか潤んでいるように思えて、巽はぎょっとした。
俺、なんか変なこと言った?
サイカは唇の両端をわずかに上げる。まるで泣き笑いみたいな表情だ。年甲斐もなくどきまぎしてしまい、巽はがしがしと頭を掻いた。
「ま、気が向いたらでいいよ。考えといて」
そうして、玄関へ足を向けたその時。
ピーンポーン、と間延びしたインターホンが鳴った。
「珍しいな、誰だろ」
室内モニターで来訪者を確認する。玄関扉の前にいるのは、くたびれた普段着姿の痩せた老人だ。猫背で、キャップを深く被っている。
巽は通話ボタンを押して応答する。
「はい?」
『すみません、朝早くに。町内会の者ですが』
「あ、はい」
そういえば、今年度の町内会費をまだ払っていなかった。
いつも不在なので、在宅のタイミングを見計らってやってきたのだろう。
巽は再び玄関へ行き、ドアノブに手をかける。
同時に。
部屋の中でモニターの画像を注視していたサイカが、声を上げた。
「待って巽さん、その人は——」
巽が玄関を開けた瞬間、扉の隙間に、靴の先が差し込まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます