第24話 巽の過去

 本当は、家族がいるのではないか。もしくは、いたのではないか。

 それは、巽の自宅を訪れた時にサイカが感じたことだ。

 彼の住まいは、どう見てもファミリー向けの一軒家だった。独り身の男性が暮らすには、おおよそ不似合いな。

 加えて、アトリに貸してくれた子供服。一人暮らしなのに、そんなものがあるのは普通おかしい。

 本人がぼかしていたので、詮索はしなかった。世話になっている相手の事情に踏み込むべきではないと思った。

 巽もまた、こちらの素性は気にしないと言ってくれたのだから。


 笑顔の印象が強い男だった。いつも前向きで、重大なことも明るく茶化して笑い飛ばす。これまでの逃亡劇の中で、彼のそういうところにどれだけ救われたか分からない。

 だからこそ、朧げな闇に沈みかけたその横顔から、目が離せなくなってしまった。


 巽がこちらに視線を寄越して、口の端だけを上げた。


「先に言っとくけど、全然楽しい話じゃねぇからな」

「えぇ」


 彼は二本目の煙草をまた一口吸い、静かに話し始めた。


「一人息子だったんだけどさ。これがすげぇやんちゃ坊主でな。我が子ながら、運動神経はなかなか良かったよ。足も速いし、キャッチボールしても投球フォームが様になってた。一緒に何回かナゴヤドームにドラグーンス戦を観に行ったな」


 それであのキャップか。


「小学生になって早々、少年団の野球チームに入れたんだ。俺も高校まで野球部だったからさ。ちなみにキャッチャーやってたんだ。強豪校だったんだぜ。甲子園にも毎年……」


 早々に脱線し始めたことに気付いたらしく、巽は小さく苦笑しながら首を振った。

 そして、ちらりとサイカの方を見る。


「デザイナーベビーの件な。全く分からない話じゃねぇんだよ。子供にこうなってほしいって願望、親ならみんな多かれ少なかれあるよ。野球は俺が息子にやらせたくて、チームに入れたんだ。を、息子ならもしかして……ってな」


 サイカは小さく頷いて、続きを促す。


「……少年団は、毎週土日の午前中に小学校で全体練習があった。でも、熱心な野球少年たちは家でもトレーニングするんだよ。俺、こういう勤務形態だから、なかなか子供に構う時間が取れなくて。土日ですら仕事入ったりする時も多くてさ。いや、今さら何言っても言い訳にしかなんねぇんだけど。とにかく、チームの練習に連れてくのもほとんど嫁さんの仕事だった」


 長距離トラックに同乗して実感したが、相当な激務だ。昼夜を問わず車内で過ごすことになるので、よほど体力のある者でなければ務まらない。

 小さな子供と接する時間は、他の職業より少ないはずだ。


「キャッチボールとかバッティング練習とか、相手する約束してたのになかなかできなくてさ。俺は酷ぇ親父だった」


 低い声が、余韻となって静寂に取り残される。

 それが消えきらぬうち、巽は再び口を開く。


「その日は土曜日で、俺は休みの予定だった。だから息子を練習に連れてく約束をしてた。でも、家を出る間際になって、急な仕事が入った。一旦仕事に出ると、丸一日は帰ってこられない。息子からは『嘘つき』と大泣きされた。俺は息子に謝って、仕事に出掛けた。『次の土曜日は絶対一緒に行くから』と、そう言ってな」


 ほんの息継ぎほどの間の後。


「それが最後の会話だった」


 一口、二口。棚引く煙は、夜の深い闇を染めるに至らない。


「練習に向かう途中、事故に遭ったんだ。道を渡ってる時、スピード違反で信号無視のトラックに撥ねられた。よりによって同業者だ」


 スピード違反。サイカの胸にじくりと苦いものが拡がる。

 今朝、それを巽に強要してしまったのだ。


「『今度は』『次は』。ずっとそんなことばっか言って、約束を先送りにしてた。気付いた時には『今度』も『次』もなかった。息子の中で、俺は永久に嘘つきで最低の父ちゃんのままだ」


 巽は煙草の先の灰を、とん、と弾いて落とした。

 伸びるまま形を保っていたそれは、呆気なく崩れて灰皿の底へと消えた。


「それだけじゃない。あの日、行けなくなった俺の代わりに嫁さんが息子に付き添ってたんだけど……俺、言っちまったんだ。『どうしてちゃんと見てなかったんだ』って」


 淡々と続く独白に、わずかな自嘲の色が混ざる。


「そんなの、嫁さん自身が一番自分を責めてたことだろうにな。しかも俺は自分のことを棚に上げて、だ。本当に最低だよ。そこから上手くいかなくなって、二年前に出てった。後悔することばっかだよ」


 どんな相槌も相応しくない気がして、サイカは沈黙を選んだ。

 胸の中に、巽と同じ煙草の煙が残っている。わだかまりのようなそれを、小さな呼吸を繰り返すことで少しずつ逃す。


「サイカさんには『前を向け』なんて偉そうなこと言ったけどさ、本当は俺自身が全然前を向けてねぇんだ。アトリのことも、息子を重ねて見てた。ちょうど同じくらいの年頃だったから」


 巽の声は、先ほどより穏やかになっていた。


「あんたらを手助けしたのは、息子や嫁さんに対する罪滅ぼしみたいなもんなんだよ。俺が勝手にやってることだ」


 不意に視線が合う。

 そして巽は、小さく笑った。


「だから俺は、全然いい人なんかじゃない」


 何も知らなければ、それはいつもと同じ朗らかな表情に見えただろう。

 ずっと笑顔でいる人が、見た通りに傷も悩みも持たないとは限らない。

 

 それでも。

 どうしてこの人は、こんなふうに他人に笑いかけることができるのだろうか。例え、ただの罪滅ぼしであったとしても。


「よっし」


 巽は煙草を押し潰して捨てると、ぱん、と一つ手を叩いた。


「はい、湿っぽい話はこれで終わり!」


 彫りの深い目元に、見慣れた笑い皺が刻まれる。


「今話した通り、俺んちは他に誰もいねぇから、好きなだけいてくれて全然構わねぇよ。ショッピングセンターやコンビニも近いし、明日にでも着替えとか揃えに行こう。アトリの着られそうな服は一応まだあるけど、さすがに下着は新しい方がいいだろ」

「え、えぇ」


 切り替え早いな。


「それから、アトリの戸籍のことだけど。たぶん、何か方法はあると思うんだ」

「え……?」

「だって児童養護施設とかで、そこにいる子供全員が園長先生と同じ苗字みたいなパターンもあるだろ。完全に身元不明だったとしても、どうにかしたら戸籍は取れるんじゃねぇかな」

「あぁ……言われてみれば」

「まずは役所に相談しに行ってみようぜ。現にアトリは存在してるわけだし、まさか駄目とは言わねぇだろ。後は、法務局だっけ? それと、養護施設に訊いてみるのもいい。『街』の外にアトリを知ってる人が増えれば、あいつらも下手なことはしづらくなるはずだ」


 確かに、巽の言う通りだ。

 急に目の前がぱぁっと開けた気分になった。


「そうね、そうかもしれない」


 これまで頑なに生物学上の母親である姉の協力が不可欠だとばかり考えていたが、あちこち相談に行く価値はありそうだ。

 『街』の者が手出ししづらい状況を作ることは、アトリの身を守ることに直結する。


「体調のことだけは、やっぱりちょっと心配だけどな。珍しい血液型のこととかも。一応、近くに小児科やでっかい病院もあるよ。大丈夫、何とかなるさ」

「えぇ……ありがとう」


 とくとくと、心臓が鼓動している。温かい血が全身を巡り始める。


「不思議ね……巽さんが大丈夫って言うと、本当に大丈夫な気がしてくるわ」


 サイカはふわりと頬を緩める。

 巽がぼりぼりと頭を掻いた。


「そりゃ良かった。さぁ、そろそろ行くか!」


 彼はからりと笑って、トラックの方へと歩いていった。

 広い背中。薄手のTシャツ一枚なので、逞しい身体付きがよく分かる。


 一人じゃなくて良かったと、サイカは思った。

 頼りになる人が、一緒にアトリを助けてくれる。


 見上げた空には丸い月。満月には少し足りない気もするが、それでも十分に明るい。

 深い夜の闇の中で、その光を心強く思った。

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