8-4

「この灰邑はいむら義丹ぎたんって画家、人気あるのかな? この前行った美術館にすごく大きな油絵が飾られていた人だよね? なんか特集展示が始まってるみたいだけど……」


 駅前の掲示板に貼られたポスターを見ていた美朱みあかが言った。


 ポスターに使われている画は『ハーヴェスター』と題された油絵。

 手足の異様に長い人影が、業火の中でもがく人々を刈り取ろうと、巨大な鉈を構える姿を描いた作品だった。


「相変わらず悪趣味なだよね。どこに需要があるんだか」

「どうでもいいでしょ。そんな画家の話は」


 宙樹ひろきは自販機のボタンを押しながら答える。


ほしさんも何か飲みますか?」

「えーと、ドクペがあったらお願い」

「あるわけないでしょそんなもの。午後ティーでいいですね?」


 後輩の返答を聞かず宙樹はレモンティーのボタンを押した。


「はい、午後ティーのレモン。ストレートもありますよ」

「ドクペじゃないの? せめてメッコールにして欲しかったな」

「ドクペよりもレアになってるじゃないですか!? 黙ってこの午後ティーを飲んで下さい!!」


 宙樹は、不満そうな顔をした後輩に、無理矢理、レモンティーのミニペットを押し付けた。


「あ、お金」

「おれのおごりですよ」

「ええと…….ありがとうございます」

「どういたしまして」


 五月の終わりの太陽がジリジリと肌を刺す。

 夏の到来を予感させる気温だったが、実際には、まだ梅雨入りすらしてない。


「気温がバグり散らしてますよね。まだ、五月なのにもうこんなに暑い……」

「やっぱり、海に来て正解だったでしょ?」


 美朱からいたずらっぽい笑顔を向けられて、宙樹の心臓が跳ねる。

 ついでに、先程、抱きしめられた時の感触がまざまざと蘇り、胸の鼓動が早くなる。


「宙樹先輩?」


 思わずその場にへたり込んでしまった宙樹に、美朱が気遣うような声をかける。


「なんでもないです。ご心配なさらず……」

「そう? ならいいけど」


 どうして、この後輩は平然としていられるのか。

 こっちは、内心の動揺を隠すのに必死だというのに。


「このあと、どうする?」

「そうですね……。ひとまず、昼ご飯でも食べますか?」


 新型ウイルスの影響で客足が遠のいているが、まがりなりにも観光地だ。

 食堂のひとつやふたつは営業しているだろう。

 二人はそう当りをつけて駅前の大通りを歩き出す。

 

「あ、猫だ!」


 美朱が指差すと青い首輪を付けた黒猫は「にゃー」と小さく鳴き、鈴の音と一緒に路地の暗がりに消えた。


「逃げちゃった。残念」


 人影のない大通りを二人で進む。

 ほどなくして、小奇麗な土産物屋兼休憩所が見つかった。


「ここにしますか?」

「そうだね。私はしらす丼にしようかな。名物みたいだし」


 店先に飾られた食事メニューの写真を見ながら美朱がはしゃいだ声を上げる。


「いいですね。おれも同じものにしますよ」

「うん! 早く入ろう!」


 美朱が宙樹の手を掴み、急かすように引っ張っる。


「そんなに慌てなくても、しらす丼は逃げませんよ」


 宙樹は美朱の雪のように冷たい手の感触を心地良く感じた。



 ※



「これ、買っていこうかな」


 宙樹が食事の会計を済ませていると、美朱がレジに土産物を持ってきた。


「何ですか、それは?」


 美朱が持ってきたのは、デフォルメされた半魚人のキーホルダーだった。

 ビビットなグリーンの体色と横に伸びたピンク色の唇。頭の上に赤いタコのような生き物が鎮座している。


「この海岸のマスコットキャラらしいよ。えーと、名前はフカキドン。頭の上のタコはダゴ子ちゃんで、フカキドンのご主人様でガールフレンドなんだって」

「はぁ……」


 美朱は気に入ったようだが、宙樹にはイマイチ理解できないセンスだった。


「あとはどうしようかなぁ……。うわ、灰邑義丹のポストカードがある。そういえば、ここ出身の画家だったっけ」


 美朱は灰邑の画がプリントされたポストカードに触れた指先を、空中でブンブンと数回振った。

 

「そのキーホルダー、よかったらプレゼントしますよ」

「いいの!?」

「はい」

「わーい、ありがとう!!」


 美朱はフカキドンのキーホルダーをふたつ持ってきた。

 キーホルダーは全く同じデザインのものだった。


「どうして、同じものを二個?」

「ひとつは私の。で、もうひとつは宙樹先輩用。先輩用は私が買ってプレゼントします!」

「いえ。おれは遠慮しておきます。なんか、呪われそうなデザインですし」

「私が!! プレゼント!! したいの!!」


 鬼気迫る後輩の表情に宙樹は生命の危機を感じた。


「はい。ありがたく頂戴します」

「よろしい!」


 宙樹は後輩からのプレゼントをおとなしく受け取ることに決めた。


「えへへ。お揃いのキーホルダーだね。早速、リュックに付けちゃおう」


 美朱の嬉しそうな顔を見て、宙樹は自分の胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「先輩も付けて!」


 少し――いや、だいぶ恥ずかしかった。けれど、宙樹は後輩のリクエストに黙って従うことにした。

 小さな紙袋からキーホルダーを取り出す。少しだけ迷って、リュックのファスナーに付ける。


「どうですか?」

「サイコウ!」


 美朱が満面の笑顔を浮かべる。

 その笑顔がまるで太陽のように眩しかった。


「さーてと、次はどこに行こうかなっと。宙樹先輩、リクエストある?」

「おれのことは気にしなくていいですよ。星さんの行きたい所に行きましょう」

「うわー、今日の宙樹先輩、メチャクチャ優しいなぁ。お昼ご飯を奢ってくれたうえにキーホルダーまで買ってくれたし」

「おれはいつでも優しいですよ?」

「うん、そうだね。知ってる」


 軽口への思わぬ反応に宙樹は顔を赤くして口ごもる。


「先輩、顔が真っ赤だよ。ダコ子ちゃんみたい!」

「ええー……」


 この後輩には振り回されっぱなしだ。

 でも、それが楽しい。

 振り回されるのが心地良い。


 この後輩はおれのことをてくれる。

 誰からも顧みられることのなかった空気人間のおれを。

 路傍の石ころにすぎないこのおれを。

 ユメのように曖昧で、生きているのか死んでいるのかもはっきりしないおれという存在を、しっかり今この瞬間にピン止めしてくれる。


 ああ――。

 おれは、彼女に。

 星美朱という人間に幻視られたい。


『おいおい。勘弁してくれよ相棒』


 声が。

 宙樹の頭の中に空いた昏い穴から声が聞こえた。


「星さん、何か話をして下さい」

「え、急にどうしたの?」


 美朱が面食らったような顔になる。


「何でもいいんです。世間話でも、映画の話でも。星さんの声をもっと聞かせてください。おれ、星さんの声が好きなんです」

「え、え、えー、な、何それ!! い、いきなりそんなこと言われたら恥ずかしくなっちゃうよ……」


 顔を赤くする後輩に、宙樹はできる限り自然な笑顔を作って「さあ」と促した。


『そんなことをしても無駄だぞ』


 頭に中から軋むような声が忠告する。


「あ、そうだ。映画の話といえば、この前話したボニーとクライドのやつは観た? 『俺たちに明日はない』ってタイトルなんだけど」

「あれは映画の話だったんですか?」

「えーと、ボニーとクライドは実在の犯罪者だよ。その二人の出会いと別れを描いた映画が『俺たちに明日はない』なの。アメリカンニューシネマの傑作って言われてるけど、アメリカンニューシネマは定義が結構曖昧だから、そこは別に気にしなくてもいいかな。でも、凄く素敵な映画で私は大好きです!」

「へぇ、そうだったんですか」

「うん。えーと、じゃあ、宙樹先輩に宿題を出します。次に会う時までに、『俺たちに明日はない』と『小さな恋のメロディ』を観ておくこと!」

「次はいつ会えますか? おれは、明日にでも星さんに会いたいです。毎日、星さんに会いたいです」


 宙樹の言葉に、美朱の顔が紅潮した。まるで林檎みたいだった。


「えええええ!! ちょ、さっきから何なの!? 宙樹先輩がそんなこと言うなんて……」


 珍しく狼狽える後輩の姿が面白くて、宙樹はつい噴き出してしまった。


「もう、笑わないでよ!」

「ははは。すみません。面白い顔だったのでつい」

「女の子に向かって面白い顔とか言うの禁止!!」

「痛い! 痛いですよ! そんなポカポカ叩かないで下さい」

「ダメ! 絶対に許さない!」

「あはははは! 痛い! 痛いですって!」


 気の早い夏の訪れを予感させる五月の太陽が少年と少女を照らす。

 海風がふたりの間を吹き抜ける。

 世界からふたりの声を残して全ての音が消え去った。潮騒も海鳥が鳴く声もここまで届くことはない。


 ナイフも、病原菌も、殺人も。

 業火の中で人々の命を刈り取る黒い人影も。

 何処かで起きている、他人事のような戦争も。


 ありとあらゆる困難と災厄が遠のき、宙樹と美朱はその人生の中で初めて心からの安寧を得るに至った。


 宙樹は空っぽの器である自分が幸福と安らぎで満たされていくのを感じた。


『くだらない。そんなモノはまやかしだ。いつかはさめる一瞬の幻想ユメにすぎない。楽しみにしているぞ。お前がユメからさめてもなおその砂糖菓子のように甘い毒を貪れるかをな』


 遠くて近い場所で昏い声が囁いた。

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