空気少年は幻視(み)られたい

砂山鉄史

0.プロローグ

0-1

 満開だった桜が散って、半月ほどたった五月の上旬。

 すっかり生ぬるくなった空気が、すえた死の臭いを運んできた。

 そうでなくても、流行病の感染拡大による死亡者増加のニュースと、病から少し遅れて跋扈ばっこすることになった連続殺人鬼の話題で、世間には薄い膜のように死の気配が拡がっていた。


『まるでおれたちの時代がやってきたみたいじゃないか』


 じっとりとした初夏の風に乗って金属を爪で引っ掻くような声が聞こえてきた。


 空嶋からしま宙樹ひろきは、その声をつとめて無視することにした。

 声に応えるかわりに彼はスンスンと鼻を鳴らす。

 死の臭いは、いつだって少し黴臭い。


 宙樹には、何か考えごとがあったり物思いに沈みたくなると、近所の公園にやってくる習慣があった。


 今日も平日の真っ昼間だというのに、高校の制服である黒い学ラン姿で、こうやって公園のベンチに腰をかけている。


 小さな公園だった。

 遊具も最低限のものしか置いてない。


 小さな滑り台に、錆びの目立つブランコ、猫の額ほどのせまい砂場、あとはベンチのそばにあるペンキのはげかけたシーソーぐらいだ。


 シーソーでは、小学校にあがる前くらいの子供たちが、楽しそうな声をあげながら遊んでいた。

 男の子と女の子のふたりだ。顔立ちがどことなく似ている。きょうだいだろうか?


『あのふたりに興味があるのか? おれは


 キーキーと軋むような声が囁きかけてくる。


「うるさい、黙ってろ」


 無視するつもりだったのに、うっかり声をあげてしまった。

 シーソーを漕いでいた男の子と女の子が、何ごとかと宙樹の方に顔を向ける。


 宙樹は内心で「しまった」と思いながら、遊具で遊ぶ子供たちに笑顔を作り、手をふってみせた。


 子供たちはキョトンとした表情で顔を見合わせると、小首をかしげ、シーソー遊びを再開した。


『まるで路傍の石ころだな。だれもお前の存在をかえりみない』


 せせら笑うような声が聞こえる。

 宙樹は苦虫を口いっぱいに押し込まれたような渋面を作ると、目をつむり、うつむいた。


 粘度の高い嫌な風が宙樹の頬を撫でていく。

 死神に触られたような、心のざわつく感触に身震いする。


『死神か……。おれたちだって、似たようなものだろ』


 声の主はどれだけ無視されても宙樹に語りかけることをやめない。

 それは宙樹にしか聞こえない宙樹だけの声だった。聞くたびに胸が悪くなる声。いつまでたってもなれることのない声。

 頭の中にぽっかりと口を空けた、底なしの穴から届く声……。


 宙樹はシーソーを漕ぐ子供たちの声だけを拾い、自分に語りかけてくる声を打ち消そうと試みる。


『そんなことをしても無駄さ。だれも自分の影からは逃げられない』


 誰も自分の影からは逃げられない。

 それはやがて迎える死の運命と同じこの世界の根源的な「真理」であり、絶対的な「法則」だと宙樹は考える。


 死。


 この世界には当たり前のように死が蔓延している。

 病気、事故、戦争、ナイフ……様々なかおをして。


 ナイフ……。そう、ナイフだ!


 天啓の訪れを感じた宙樹は、ズボンのポケットから愛用のナイフを急いで取り出した。

 文房具店などで簡単に買えるありふれたデザインの折刃式のカッターナイフだ。

 チキチキと小気味のいい音をたてながら少しずつ刃を伸ばしていく。

 真昼の陽光を照り返すナイフの刃先を眺めているうちに、心が落ち着いてきた。あの鬱陶しい声も静かになった。


 死。


 その言葉が宙樹の頭のかたすみに炭酸水の泡のように浮かんでは消える。

 自分の後ろをいつまでも飽きることなくつけまわす影と同じだ。決して、だれも、それからは逃れ得ない。


 宙樹は鼻をスンスンと鳴らす。繰り返し鳴らす。病原菌のように大気中を漂う死の臭いを嗅ぎ取る。それは黴の臭いによく似ている。


 弛緩した五月の風に乗って子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。

 宙樹はナイフを握る手に力をこめる。

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