9-3

 翌朝――。六月一日、水曜日。学校の教室。

 宙樹ひろきは、机に突っ伏していた。

 昨日の夜、衣装ケースの底に眠っていた古い家族写真を発見してから、宙樹は自分と美朱みあか

が過去に出会っていた可能性に思いを巡らせ続けていた。


 美朱は幼い頃、此乃町このちょうで暮らしていた。偶然、宙樹と出会っていてもおかしくはない。


 本人に、確認するべきだろうか。

 でも、どうやって?

 昨日の夕方からLINEに反応はない。電話をかける勇気はない。あったとしても、スマホが壊れているなら連絡は取れない。

 いっそのこと、教室まで行くか? しかし、宙樹は美朱のクラスを知らなかった。

 美朱の顔が見つかるまで、一年生の教室を虱潰しに探していくか。

 そこまで考えて、宙樹は自分の思考がストーカーじみてきたことに気づき、ゲンナリとする。そもそも、女子に電話する勇気すらないチキン野郎にそんな大胆な真似ができるわけなかった。


 宙樹は机に突っ伏したままー「はぁ……」と深いため息をつく。


「なぁ、大丈夫か?」


 隣の席の男子が声をかけてきた。


「この前も急に学校を休んだりして、何かあったのか? 体調が悪いならマジで無理しないほうがいいぞ?」


 隣の席の男子生徒は、数日前に保健室に行った時も宙樹のことを心配していた。


「……いえ、大丈夫です」

「ならいいけど。ガチでヤバくなったら言えよな。保健室ぐらいまでなら連れていってやるからさ」


 そう言うと、男子生徒はニカッと笑ってみせた。


 彼は善良な人間なのだろう。机から顔を上げずに宙樹は思う。

 自分のような人間は、放っておけばいいのに。

 放っておいて欲しかったから、ずっと空気でいたのに。

 登校してもできる限り人と関わらず、弁当も教室の片隅か人の寄り付かなくなった屋上で食べて、徹底的に自分の存在を消してきたのに。

 

 そうしていたら、いつの間にか、本当に誰からも相手にされなくなった。

 こうやって、宙樹は自分が望む自分——教室の石ころに、存在感ゼロの空気少年になった。


 でも、時々。

 本当に、時々。

 隣の席の男子や美朱のように、自分を「見つける」人間が現れた。

 その度に、申し訳なさで胸の中が一杯になった。

 おれみたいな親殺しのろくでなしに、あなた達の貴重な時間を使わせてごめんなさい。と。

 そして、せっかく声をかけてくれた人達に、そんな卑屈な感情を向けてしまうことに心の底からウンザリするのだ。


 ナイフ。

 おれのナイフはどこだ?


 宙樹はお守りのカッターナイフがたまらなく恋しくなっていた。



 ※



 芸術家アーティスト灰邑義丹はいむらぎたんこと牟田口尚哉むたぐちなおやは、K県内のアトリエでキャンバスと向き合い猛然と絵筆を振るっていた。


 アトリエはコンクリートの打ちっぱなしで、そこには画材やキャンバス、廃材に工具が乱雑と散らばっているように見えたが、それらは全て牟田口の頭の中では計算された乱雑さとして認識されていた。


 牟田口は、混沌とした秩序に支配された心地良い小宇宙の中で熱にうなされながらキャンバスに向かい叩きつけるように絵筆を振るう。床に、壁に、天井に。自分自身の顔に、服に、髪に絵の具を撒き散らしながら、一心不乱にイメージをキャンバスに塗り付ける。


 時々、切断機と溶接機を使い気まぐれに廃材アートを作り上げる。

 廃材アートが増える度に、工具の重さと熱で全身が汗みずくになるが牟田口はおかまいなしだった。


 アトリエの中央には、巨大なキャンバスが置かれていた。隣県の美術館で展示されている「ハーヴェスター」よりも更に大きなサイズの真っ白なキャンバス。

 そこには、芸術家・灰邑義丹が己の人生を賭して挑む畢生の大作が描かれる予定だった。

 灰邑がこれまで行ってきた創作活動は、全てこの未だに描かれざる至高の芸術を地上に顕現させるために必要な通過儀礼でしかなかった。


 全ては、この天上の芸術のために。

 全ては、このタブラ・ラサに自分の「魂」を塗り込めるために。


 牟田口は、自分の目的のために創作活動以外にも八方手を尽くしてきた。

 犯罪スレスレの——いや、完全に法に触れるようなことも厭わなかった。

 牟田口には協力者がいた。芸術家・灰邑義丹の作品に心酔する信奉者達がいた。政治や法の中枢にすら存在する彼・彼女らの力を借りて、牟田口は自身が手を染めた犯罪行為の隠蔽を行ってきた。

 

 信奉者のひとりが面倒を見ていた身寄りのない少年。

 牟田口は、偶然、その少年の存在を知った。

 その信奉者は、まるで影か空気のように振るまおうとする少年が薄気味悪くて仕方ない、と牟田口にこぼした。

 牟田口は、ほんの気紛れでその少年に会ってみようと考えた。彼は常に自分のインスピレーションを刺激する存在に飢えていた。

 牟田口は、その少年と直に言葉を交わし天啓を得るに至った。少年から、ある種の才能を感じたのだ。

 全てを諦め、無色透明になった少年に。

 母親からの虐待と不幸な事故で幼い心を歪ませ、本来なら感じる必要のない自責の念で正気を失った可哀想な子供に。

 空気少年、路傍の石ころ、ナイフに対する異様な執着。その全てが牟田口の感性を刺激した。

 しかし、まだ足りない。

 他人から顧みられることを諦めた空気少年は、それでも心のどこかで人並みの幸福という甘いユメを求めていた。

 これではダメだ。少年には次のフェーズに進んでもらわなくては。

 そこで、牟田口は宙樹に高校進学の学費とその間の生活費の援助という甘い餌をチラつかせた。

 心のどこかでささやかな幸福を求めていた少年は、牟田口が用意した餌に飛びついた。

 甘い、甘い、毒入りの餌には危険な罠が仕掛けられていた。

 そして、まんまと罠にかかった宙樹は牟田口の求める存在に成り果てた。


 成り果てた筈だった。


 しかし、最近の宙樹はどこかおかしい。

 まるで、甘い幻に頭から浸かったように浮かれ散らしているではないか。

 牟田口はそれとなく探りを入れてみたが、宙樹ははぐらかすばかりで埒が明かない。

 このままでは、あまり穏やかではない手段で宙樹に「処置」を施さなくてはいけなくなる。

 できれば、それは避けたかった。

 宙樹の精神が限界を越える可能性がある。牟田口は宙樹を壊したいわけではない。生きたまま自分に創作の糧になって欲しいのだ。

 さて、どうしたものか。そう思った矢先だ。

 特集展示の打ち合わせで向かった隣県の美術館で。

 牟田口は、宙樹を惑わせる甘い幻の正体を知った。

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