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 ほしあおい芸術家アーティスト灰邑はいむら義丹ぎたんの秘書を名乗る女性と面会していた。場所は出版社の応接スペース。女性はノースリーブの白いワンピース姿で、葵は翠川みどりかわ絵梨花えりかのことを思い出して落ち着かない気分になった。


 女性は席に着くとライムグリーンの小さなハンドバックから名刺を取り出し葵の前に置いた。

 名刺には、灰邑義丹事務所・勅使河原てしがわら伊織いおりと記されていた。

 勅使河原は、灰邑義丹の作品の中に都市伝説の殺人鬼・ブギーマンからインスパイアされたものがあると葵に伝えた。ハンドバックからポストカードを取り出すと、「ここに印刷されている『ハーヴェスター』という作品に描かれた黒い影。これこそがブーギマンなのです」と説明した。


「灰邑先生が星さんのお仕事に協力できるかもしれないと仰っています」


 勅使河原はそう言うと柔和な微笑みを浮かべた。一瞬、葵は目の前に翠川絵梨花の幽霊が佇んでいるのかと思ったが、苦いコーヒーを一口飲んでその妄想を振り払った。


 灰邑の名前は葵も聞いたことがある。ここ数年、高い評価を得ている芸術家だ。メディアに姿がほとんど露出していないため、顔は知らない。確か、主に油絵を描きながら廃材アートなども手掛けていた筈だ。朧げだが何点か作品を見た記憶がある。葵の趣味からは外れており、はっきりとした印象は残っていなかった。


「星さんはこちらで出版されている雑誌にブギーマンの記事を書かれる予定なのでしょ?」


 どうして、特集記事のことを知っているんだ。葵は眉をひそめる。取材先から情報が漏れたのだろうか。仮にそうだとして、どういう経緯で灰邑に伝わったのか。

 

「翠川の件で星さんにはご迷惑をおかけして心苦しい限りです。先生はそのお詫びもしたいと申しております」


 そうか。灰邑とこの女は翠川絵梨花の関係者なのか。それなら特集記事の内容を知っていることにも合点がいく。


 翠川の件でショックを受けなかったといえば嘘になる。

 しかし、灰邑がどのような話を自分にするのか興味はあった。


「よろしければ、先生とご一緒にお食事などいかがでしょうか? せっかくなので妹さんにもご同席していただきましょう。ふふ、びっくりされていますね。ご心配なく。先生と妹さんはお知り合いなんですよ」


 勅使河原は呆気に取られる葵を穏やかな笑顔で見つめた。



 ※



 K県警捜査一課の刑事部屋で、前野まえの大迫おおさこは、刑事主任のかがみ草太そうたと共に、翠川絵梨花殺害事件の情報整理を行っていた。


 翠川の死亡推定時刻は5月31日の午前8時から11時の間。前野と大迫、それに星葵が現場となったオフィスビルに行った時間とほぼ同じだった。


 死体は紐のようなもので絞殺された直後にナイフで胸元を刺されている。天川あまかわミチルの殺害から始まる一連の事件と同じ手口だ。ナイフは把手ハンドルの付いたそれなりに見栄えのするものだった。前野は神岸かみぎしすみれの時とは違い、模倣犯の可能性は低いと考えた。鑑と大迫もその意見にひとまず同意した。


 前野と大迫は星葵がビルに入っていく姿を目撃していた。星の動きに目立って怪しい様子はなかった。妹と連絡が取れないことで取り乱す場面もあったが、暫くすると落ち着いた。念のために星姉妹の住むマンション周辺をパトロールしているパトカーに安否確認を行わせるも妹は不在。星葵は「どうせ悪い友達と遊び歩いているのだろう」と妹に対する関心を失ったようだ。この態度に前野と大迫は違和感を覚えたが、ちょうど鑑識班が到着したので有耶無耶になってしまった。


 星葵は所轄署で捜査官から死体の発見現場となったビルの一室——畳敷きの会議室——を訪れた理由を訊かれた。「取材の約束をしていた」というのが返答だった。これは、既に前野が聞いていた話と矛盾なく一致した。会議室でブギーマンカルトの「儀式」が行われることは知っていたが、その細かい内容まで把握していなかった。


 大迫は「儀式」の話を持ってきた情報屋からもっと詳しく話を聞くべきだと前野に提案した。前野は情報屋に「事情聴取」を行ったが目ぼしい成果はあげられなかった。情報の主な仕入れ先はインターネットのSNSやディスコード等で、ネットの海に漂う断片的な情報群を独自にまとめあげたものを前野に伝えていたようだ。

 

 神岸菫殺害事件以外は容疑者の絞り込みすらままならない。

 捜査は暗礁に乗り上げていた。


 ウイルス、殺人、戦争。恐怖と不安に飲み込まれた人々は連続殺人犯に邪悪なカリスマ性を見出しつつあった。

 そして、連続殺人事件の発生と同調するように囁かれ出したブギーマンの都市伝説とブギーマンを信奉するカルトの存在。

 さらに、ブギーマンカルトと反ワクチン反マスク団体の結託。

 警察にとって頭の痛い出来事ばかりが続く。


 星葵には念のため尾行を付けている。

 先程、尾行を担当している刑事から連絡があった。

 星葵が職場を訪ねてきた女と二人でどこかへ向かっている。自分はこのまま二人の尾行を続けると。



 ※



 美朱みあかは姉と仲直りすることを心の底から望んでいた。

 ここ数日、姉は美朱に冷淡とした態度を取り続けている。

 言葉をかけてもほとんど反応してくれない。虫を見るような目で美朱を見る。スマホも壊れたままだ。学校をサボって宙樹ひろきと二回目の海に行ってから、友人達も少しよそよそしい気がする。


 どうして、こんなことになってしまったのだろう?

 美朱の精神はもう限界だった。


 美朱は優しかった頃の姉を思い出しながら教室の天井に視線をさまよわせる。

 まるで、目に見えない幻を探し求めるように。


 幼い美朱が想像の中で作り上げた不可視の友達——イマジナリーフレンドの話を誰よりも真剣に聞いてくれた姉。

 周りから除け者にされてもずっとそばに居てくれた姉。

 傷付いた自分をそっと抱きしめてくれた姉。


 私の大好きなおねーちゃん……。

 美朱は虚空を見つめながら、姉との思い出を振り返る。


 母親が美朱の虚言癖を叱責したあの日。自分に優しくしてくれない母親を困らせようと家の至る所にビー玉を転がした。母親が転んでケガをすればいいと思ったのだ。階段でビー玉を踏んだ母親が転落しかけたことで、美朱は両親から更に激しい叱責を受けた。すっかり憔悴した妹を抱き締めながら葵は「美朱はユメる女の子。幻視少女だね」と優しく囁いた。


 美朱は姉がくれた幻視少女の肩書きに縋り、数え切れないほどの「視なくてもいいモノ」達をその目で見つめ続けた。

 その度に美朱の周囲から人は離れ、姉と二人の閉じた世界はより強固なものになっていった。


 高校入学を期に美朱は幻視少女の肩書きを封印するつもりでいた。姉は自分の面倒を見るために相当の無理をしている。これ以上、姉の負担になりたくなかったのだ。


 なのに、美朱は宙樹を見つけてしまった。

 全てのあやまちはそこから始まったのだ。

 美朱はそう確信する。


「おねーちゃん、沢山迷惑かけてごめんね。私はもう二度とまぼろしを見ないよ……」

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