9-5

 宙樹ひろき牟田口むたぐちに呼び出され、此乃町このちょうのはずれにある大きな洋館にやってきた。


 洋館は町はずれの森の奥にひっそりと建っていた。

 歴史を感じさせるゴッシク調の建物だ。俗世から切り離された独特のオーラを宙樹は感じた。


 宙樹を洋館まで連れてきたタクシーの運転手は、目的地に到着すると自分の仕事はこれで終わりだと言わんばかりに黙って走り去ってしまった。運転手は道中もずっと無言を貫き通した。牟田口の「協力者」はタクシーの運転手に限らず、宙樹と必要以上に交流しようとしなかった。


 玄関の前に人影が見えた。近づくと初老の男性なのが分かった。執事ふうの黒いスーツを着ている。この屋敷の持ち主は随分裕福なんだな、と宙樹は思う。


 男性は宙樹の姿を確認すると「こちらへ」と小さな声で呟き、館の中に招き入れた。

 宙樹と男性は広々とした玄関ホールを抜け、立派な階段で二階にあがる。

 

灰邑はいむら先生がお呼びになるまで、この部屋でお待ちください」


 案内された部屋は宙樹の住み処がまるごと収まりそうなほど広い。おそらく、二十畳以上はあるだろう。掃除は行き届いているようで、艶やかな木張りの床には塵も埃も落ちていなかった。窓のカーテンも新品のように真っ白だ。


 部屋の真ん中には木製の椅子が一脚だけ置いてあった。背もたれの長い、革張りの立派な椅子だ。部屋を見回しても他に家具はなかった。普段は使われてない部屋なのだろうか。こんな広い部屋を遊ばせておくとは金持ちの考えることは分からない。宙樹は呆れたような表情を浮かべる。


 他にすることもなかったので、宙樹は革張りの椅子に腰をおろした。座り心地は上々だった。


 通学用のリュックを床に置く。制服のシャツの胸ポケットからスマホを取り出しLINEを確認する。美朱みあかからの反応はなかった。宙樹は小さく溜息をもらした。

 


 ※



 美朱は新調したばかりのスマホを掌の上で玩びながら、姉のあおいを横目で盗み見る。

 葵は表面上落ち着きを取り戻していた。美朱を無視することも、暴言を吐いたり暴力を振るうこともなくなり、美朱はほっと胸を撫でおろした。


 昨夜のことだ。葵から仕事関係の知り合いとの会食に同行するように言われた。美朱は「どうして私がおねーちゃんの知り合いとご飯を食べないといけないの?」と面食らった。その知り合いが灰邑義丹はいむらぎたん牟田口尚哉むたぐちなおやだと知らされ更に戸惑いを覚えたが、美朱は姉の言葉に従うことにした。


 葵は美朱と一緒に海へ行った相手を気にしているようだった。葵に「公園の居た眼鏡の男の子なの?」という質問に、美朱は「そういえば、そんな人もいたねー」と素っ気なく答えた。すると、葵は興味を失ったのか、それ以上詮索することはなかった。美朱は宙樹に対して罪悪感を覚えたが、姉との関係性を修復するためには仕方ないことだと自分に言い聞かせた。

 

 美朱は葵からブギーマンに関する記事を書いていると知らされ少なからず衝撃を受けたが、ゴシップ誌の編集者兼ライターならそういう仕事もするのだろう、と自分を納得させた。「ハーヴェスター」に描かれた黒い影がブギーマンをモチーフにしていると教えられたときは、自分はおかしなモノとつくづく縁があるな、と心の中で自嘲気味に笑うことしかできなかった。


 美朱と葵は電車に揺られながら食事会が催されるレストランに向かっていた。

 此乃町のはずれの方にある会員制のレストランらしい。葵は「久しぶりに美味しいものが食べられそうね」と牟田口との会食に乗り気だったが、美朱の心境は複雑だった。


 電車が目的の駅に着いた。

 ホームを出ると、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえた。

 美朱はあたりを見回したが、声の主を見つけることができなかった。


「ちょっと。あまりキョロキョロしないでよ。恥ずかしいじゃない」

「ごめん。何か、猫の鳴き声が聞こえたから、つい……」

「猫と遊んでるヒマなんてないわよ。そろそろ迎えが着く時間だし」


 葵はそう言うと駅前のローターリーの方に顔を向け「ほら、行くよ」と美朱を急かした。


「にゃー」と足元で声がした。下を向くと、そこに一匹の小さな黒猫が居た。顔を上げて大きな瞳で美朱のことをじっと見つめている。首輪は付けていなかった。多分、野良猫だろう。

 美朱は思わずその場にしゃがみ込み猫の頭を撫でそうになったが、葵が険しい表情で自分を見ていることに気付き、慌てて手を引っこめた。


 仔猫のことは気になったが、ここで余計な時間を浪費して葵を機嫌を損ねては元の木阿弥だ。

 美朱は猫への未練を断ち切り、早足で姉を追う。


 そういえば、二回目の海でも猫を見かけた。頭を撫でようと手を伸ばしたら路地の暗がりに逃げられてしまった。残念そうな表情を浮かべる美朱を見て宙樹が笑った。宙樹の笑顔は空気みたいに透明で綺麗だった。美朱は宙樹の笑顔が好きだった。今更、そのことに気付いた。


 美朱は「ダメだな」と呟きながら首を振る。もう、忘れようと決めたのに……。

 

 そのときだ。

 不意に、美朱の中である記憶が蘇った。


 幼い頃、よく遊びに行った公園の記憶。先月、死体を発見したあの公園の記憶だ。遠い過去に、そこでひとりの男の子と出会った。男の子は、滑り台の傍で「父親が死んだ! 僕が殺したんだ!!」と泣き叫んでいた。数日後、同じ公園でその男の子と再会した。男の子は、美朱が見つけた瀕死の仔猫にとどめを刺して、一緒にお墓を作ってくれた。男の子とまた遊ぶ約束をした。けれど、その約束は突然決まった引っ越しのせいで反故にされた。された筈だった。


 突拍子のない考えであることは分かっている。

 やにわに自分の中で浮かび上がった考えに、美朱自身も戸惑っていた。

 それでも、こう考えずにはいられなかった。

 あの男の子は宙樹だったのではないか。

 世界から孤立したような雰囲気を纏っていたあの男の子は、空気のように透明な笑顔を浮かべる年上の少年とよく似ているような気がしてならなかった。


 美朱は思い出す。あの公園の至るところにビー玉を転がしていたことを。それは、当時の美朱のお気に入りの悪戯だった。そして、美朱はある恐ろしい可能性に思い当たった。宙樹の父親は公園の滑り台の階段から転落して亡くなった。美朱の母親はビー玉を踏んで危うく階段から転落するところだった。これが、何を意味するかといえば……。


 美朱は自分の血の気が引く音を聞いたような気がした。

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