9-2

「できれば、知られたくなかったんですけどね……」


 薄暗い部屋の中で宙樹ひろきは独り言つ。


「これも親を殺した罰なんですかね……」


 今日の昼下がり、海のある町の美術館併設のカフェで、美朱みあかと二人で休憩している時に、あの男と遭遇してしまった。


 間の悪い偶然だった。

 偶然?

 いや、それは違う。

 宙樹は頭のどこかでいつかこうなるだろうと予測していた。


 先週、あの美術館に展示されていたアイツの画を見たときから。

 あるいは、それよりもずっと前から。

 自分は逃げることができないと確信していた。


『ハーヴェスター』と題された画の中で炎にのまれ苦しむ人々と同じだ。自分を追い回す影から、絶対に逃げることはできない。そう確信していた。


 だから、あのタイミングで牟田口むたぐちに遭遇したのは、偶然ではなく必然なのだ。

 牟田口に美朱の存在を知られてしまったのは、逃れ得ぬ運命なのだ。

 宙樹には、そう考えることしかできなかった。


「ふへ」と唇の端を引きつらせるように笑う。

 美朱に注意された卑屈な笑い方はすっかり身に沁みついてしまったもので、一朝一夕に変えられるものではなかった。


「まぁ、親殺しにはお似合いの運命なんでしょうね」


 宙樹の言葉を聞く者は、この部屋に存在しない。

 頭の中の穴から響く軋むような声も今日は黙りだ。

 それでも、宙樹は虚空に向かって言葉を紡ぐ行為をやめようとしない。


「結局、分不相応な望みだったんでしょうね。おれに、人並みの幸福を得る資格なんてないのに……」


 それでも――。

 望んでしまった。

 望まずには、いられなかった。


 無色透明な空気のままでいれば良かったのに。

 道端に転がる石ころのままでいれば良かったのに。


「なのに、おれは……」


 あの後輩に――。

 花のようにたおやかな笑顔と宝石のように煌めく瞳を持った女の子に。

 自分のことをつめて欲しいと願ってしまった。


「身の程知らずの馬鹿野郎なんですよ。おれは」


 宙樹は畳に転がり天井を眺める。

 あの後輩のことを、美朱のことを考えると胸が疼く。

 まるで、胸をナイフで切り刻まれるような痛みが奔り抜ける。


「はぁ……」


 気の抜けた溜息がこぼれる。

 畳の上をゴロゴロと転がってみるが、そんなことをしても気は晴れない。


 牟田口の存在を知られた以上、もう、美朱とは会わないほうがいいのだろうか。

 美朱を「儀式」に巻き込むわけにはいかない。

 絶対に、それだけは避けなくてはならない。

 

 念のため、スマホでLINEを確認するが、帰宅時に送ったトークは既読スルーのまま。

 美朱からの新規のトークもない。


 普段は依存症を疑うレベルの速度で既読がつき、暇さえあればトークを送りつけてくるのだが、どうしたのだろう?


 そういえば、一緒にいる時も自分のスマホを使わず宙樹のスマホで検索結果を確認していたし、写真を撮ることもなかった。


「……スマホ、故障中なんですかね」


 朝、教室に向かう宙樹を昇降口で待ち構えていたのも、スマホが故障していたからなのだろうか。

 仮にスマホが故障中だとして、それは顔の怪我や突然「海に行こう」と誘ってきたことと何か関係あるのだろうか?


 疑問ばかりが降り積もる。


「あれこれ思い悩んでいても仕方ないですね」


 宙樹は畳から飛び起きると、部屋の電気を点け、台所に向かう。


「こういう時はパンを焼きましょう! ストレス解消にはこれが一番です! あと、芋の皮むき!」


 どのみち、美朱とはしばらく学校で会うことはない。

 期末考査の準備期間中、屋上は閉鎖される。

 学校側としては、休憩時間も教室か図書室で自習をしていろ、とでも言いたいのだろう。なんにせよ、屋上の昼食会は中止だ。宙樹はそのことを強く残念に思う。


 目の前の問題を先送りにしている自覚はあったが、自覚があったところでどうにかなるわけでもない。

 自分には、なんの力もない。

 生活の面倒だって牟田口に見てもらっているくらいだ。


 宙樹は改めて自分が他者によって生かされているちっぽけな存在でしかないことを痛感する。


 自分の面倒すら見れない小さな塵のような子供に、人の抱えた荷物まで背負い込むことはできなかった。


 結局、考えるだけ無駄なのかもしれない。


 自分にできることは、美朱に塁が及ばぬよう彼女と縁を切ることくらいだろう。


 簡単なことだ。

 スマホからLINEのアプリを削除すればいい。それで終わりだ。


 簡単なことだ。

 LINEでのやり取りがあるのは、美朱ひとりだけなのだから、何も困ることはない。


 簡単なことだ。

 仮に、学校で美朱が接触してきても、徹底的に無視を続ければいい。所詮、宙樹は誰からも顧みられることのない空気。世界の表層に貼り付いた薄っぺらい影だ。そのうち忘れ去られて、終わりだろう。


 両親を失い孤独になったあの日から、全てを諦め続けてきた宙樹には、容易いことの筈だった。

 

 なのに。

 どうしても決断することができない。


 今回ばかりはどうしても諦めきることができなかった。


 ユメのように曖昧な存在である空気少年は、今やこんなにもたったひとりの人間から幻視られることを幻視ゆめみていた。



 ※



「これは……」


 パンが焼けるまで宙樹は衣替えをして時間を潰すことにした。明日から六月だ。ちょうどいいタイミングと言えるだろう。

 美朱が「宿題」に出した二本の映画を観ようかと思ったが、画面に集中できる精神状態ではない。

 どちらかといえば、体を動かしたい気分だった。

 何もしないでいると、ますます気分が沈む。


 何が入っているのか確認しようと中身を全部出した衣装ケースの底に、木製の写真立てフォトフレームが入っていた。


 写真立てに収まっていたのは一枚の写真。

 小さな男の子とその両親と思しき若い男女の写真。

 幼い頃の宙樹と両親の家族写真だ。

 背景に見憶えのある滑り台が写っていた。

 父親が命を落としたあの公園に、家族三人で遊びに行ったときの写真なのだろう。

 写真の母親は穏やかな笑顔を浮かべていた。こんな優しい表情を浮かべる人間が、自分に酷い虐待を働いていたという事実に宙樹は眩暈がする思いだった。


宙樹は家族写真をしばらく黙って見つめる。そして、収納ケースの底に写真立てを戻しかけたとき、何かを思い出したのか「あ」と小さく声を上げた。


 父親が滑り台から転落したあの公園。

 後輩の少女が死体を発見したあの公園。

 昔、一緒に仔猫のお墓を作った女の子。

 病院で出会い、あの公園で再会した女の子。

 少しわがままで人の話を聞かない、けれど笑顔の可愛いキラキラと煌めく目を持った女の子——。


 後輩が。

 美朱が。

 あの女の子とよく似ていることに宙樹は気が付いた。

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