9.おわりの、はじまり
9-1
こんなに静かな食卓はいつ振りだろう。
対面に座る姉の
ダイニングのテーブルは、配達ピザの箱と、葵が飲んだ缶ビールの空き缶で散らかっていた。
葵がアルコールを飲むことは滅多になかった。
少なくとも、ここ数ヶ月、美朱は姉の飲酒する姿を目にしたことはなかった。
ピザをビールで乱暴に流し込んでいく姉の姿に、美朱は居心地の悪さを覚えた。
ピザを食べても全く味がしない。粘土を食べてるみたいだった。
宙樹と一緒の時は気にならなかった顔の傷が再び疼き出すのを感じる。
美朱は姉の顔をチラリと盗み見る。
口を半分開けたまま、視線を虚空に彷徨わせている。
細い涎が口の端から垂れてテーブルを汚した。
姉は「チッ」と舌打ちすると肘で涎を拭き取る。
美朱は見てはいけないモノを見てしまったような気分になり、姉から慌てて目を逸らした。
※
夕方。
海から戻ってきた美朱は、葵がリビングのソファーに身を投げ出すように座っているのを見つけて驚いた。
「お、おかえり。今日は、もうお仕事終わったの?」
美朱は務めて普段どおりの調子で声をかける。
葵はぼんやりとした顔をしながら無言で天井を見つめるだけで、美朱の言葉に反応しない。
「お、おねーちゃん?」
美朱は、恐る恐る姉に呼びかける。
「死体」
姉の口から飛び出した剣呑かつ非日常的な単語に美朱の思考が一瞬停止する。
目と口を丸くして「へ?」と間抜けな声を上げることしかできなかった。
「死体を見つけたの。アンタと一緒。
葵が「ふへ」と笑う。
それは自分自身を嘲るような歪んだ笑い方に見えた。
美朱は何か言おうと口を開きかけたが、何も言葉が見つからず、「うあ」と喉を鳴らすことしかできなかった。
「なんか疲れちゃったよ。夕飯、作る気がしないな。面倒だし、宅配ピザでいいよね? バカみたいに高いけど」
葵は美朱の返事を待たずにスマホでピザの注文をする。
「ぼんやり突っ立ってないで、着替えてきたら? あと、ピザが来る前にさっさとお風呂に入っちゃってよ」
葵が美朱の顔を見ずに吐き捨てるように言う。
「お、おねーちゃん。私……」
何か言わなくては。美朱はそう考える。けれど何を言えばいいか分からない。
何かを伝えなくてはいけないのに、何を伝えればいいのか分からない。
美朱の中で焦燥感ばかりが増していく。
「うるさいなぁ……。疲れてるんだよ。少し、黙ってくれない?」
クッションを抱きしめ顔をうずめる姉の姿に居た堪れなさを感じることしか出来ない。美朱は無言のまま自室に引きさがった。
美朱はワードローブから着替えを取り出すと、後ろ髪を引かれるような気分で浴室に向かう。
姉のことが心配だったが、それと同じくらい気がかりなことがあった。それは、
美朱は浴室に入ると普段よりも熱いシャワーを浴びながら、数時間前の出来事を思い出す。
それは、美術館併設のカフェでのこと。
宙樹の名前を呼んだ男。
鳥の巣のようなラフすぎるヘアスタイルにヘラヘラと弛緩した笑顔。黒いマスクは顎のあたりまで下がっている。
一応、ジャケットスタイルだが上着とスラックスには皺が寄っており、茶色い革靴には汚れと傷が目立った。やや清潔感を欠いた風体に美朱は眉をひそめた。
男は
美朱は宙樹と闖入者の顔を交互に見比べる。
宙樹は小さく溜息をつくと、この牟田口が前に話した自分の後見人なのだと、目の前の男を紹介した。
宙樹の紹介を受け、牟田口は「どうもどうも」と頭をボリボリと掻きながら美朱にヘラヘラ笑いを向ける。嫌な表情だ。美朱は本能的な不快感を牟田口から覚えた。
「それにしても、意外な場所で会うもんだね。宙樹くん達はこんなところで何をしているんだい? ひょっとしてデート中だったりする?」
「違います」
即答ですか。
美朱は心の中でツッコミを入れる。
「えーと……」
牟田口が美朱のほうを見る。
そういえば自己紹介がまだだった。
それにしても無遠慮に人の顔を見すぎだ。
そんなに、顔を怪我した女子高生が珍しいのか。
「
下の名前は教えなかった。
「星さんは宙樹くんとはどんな関係なの?」
「高校の後輩です」
美朱の言葉に牟田口は「ふーん」と興味なさげな声を上げる。
自分で質問しておいて、何だその態度は。美朱の牟田口に対する評価は悪くなる一方だった。
それに。
牟田口に名前を呼ばれたときに、宙樹がほんの一瞬だけ見せた表情が気になった。
あれは、まるで汚い虫でも見るような顔だった。
どう考えても子供が後見人——保護者代わりの人間に向ける表情ではない。
一体、牟田口の何が宙樹にあの表情を浮かべさせたのだろう。
「先生」
牟田口のそばに女性が早足で寄って来た。
ノースリーブの白い夏用ワンピースを着た二十代前半と思しき女性。
薄い茶色の髪が腰まで伸びている。マスクはしていなかった。
同性の美朱から見ても、ちょっとハッとするような美しい女性だった。
その女性が牟田口に耳打ちをする。
「宙樹くん、星さん。もう少しお喋りをしていたかったけど、僕はそろそろお暇させてもらうよ。館長を待たせているんで」
「館長?」
美朱は牟田口の口から飛び出した意外な言葉につい反応してしまった。
「そう。会期の前半と後半で展示品を入れ替えるんだけど、今日はこれからその相談があってね」
「展示品?」
「あー、ごめんごめん。肝心なことを説明していなかったね」
牟田口はジャケットの胸ポケットから四角いケースを取り出すと、中身を引き抜き、美朱に渡した。
渡されたのは名刺だった。名刺には「画家・
美朱は思わず宙樹の顔を見た。
そして、「あう」と喉を鳴らした。
そこには、触れるもの全てを切り裂く鋭いナイフのような目の少年がいた。
まるで、人殺しのように昏い貌をした少年が美朱の対面に座っていたのだ。
よく知ってる少年の、全く知らない凄惨な表情を目撃して、美朱は背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
美朱はその忌まわしい記憶を洗い流すように、熱いシャワーを浴び続ける。
お湯が傷に染みて疼くけれど、そんなことはもうどうでも良かった。
※
「もういらない。残りはアンタが食べて」
「うん」
「食べ切れなかったら捨てちゃっていいから」
「うん」
食卓に沈黙が降りる。それは、姉妹に間を遮る見えないカーテンのようだった。
葵は溜息をつくと「血は争えないのかね……」と小さく呟いた。そのまま、ビールの缶を口に運ぶが、空なことに気づくと「死ね」と吐き捨てるように言った。姉の荒れた言葉使いに美朱は胸が苦しくなるのを感じた。
「おねーちゃん、私……」
葵は何も言わない。
ああ、これは全部私が悪いんだ。
私が悪い子だからおねーちゃんは怒っているんだ。
私がもっといい子にしていれば。
おねーちゃんの理想の妹でいれば。
「もう寝る。今日は疲れた。心の底から疲れたよ。一体、いつまでこんな生活が続くんだろうね。教えてくれないかな?」
葵が美朱のほうを見る。
そして、美朱は深く後悔した。
朝、姉の機嫌を損ねたことを。
今日、学校をサボって宙樹と海に行ったことを。
葵が美朱に向ける表情は、宙樹が牟田口に向けたモノと同じだった。
虫を見るような荒んだ表情。
あるいは、ナイフのように鋭い人殺しの目。
葵は昏い貌で妹を一瞥すると、無言でダイニングを出て行った。
美朱は姉に何も言葉をかけることができなかった。
美朱にできるのは、画面のひび割れたスマホを、震える手でお守りのように包み込み、深く深く後悔の海に沈んでいくことだけだった。
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