10-4

 美朱みあかは夢を見ていた。


 夢の中の美朱は今よりもずっと子供で、無邪気な笑顔を浮かべながら家の庭に生えた木々の間を指差していた。

 そこには美朱にしかない空想の友達がいた。

 両親は美朱の行動に困惑するばかりだった。

 時に厳しい言葉で叱り付けられることもあったが、その度に姉のあおいが優しい言葉で慰めてくれた。


「美朱はユメを視る女の子——幻視少女だね」


 葵は縁側で美朱の頭を撫でながらそう言った。

 美朱は姉の言葉を気に入り、そして大いに励まされた。

 姉の優しさと掛けてくれた言葉に報いたくて、「視なくてもいいモノ」を探し続けた。


 それが良くなかったのかもしれない。


 ある日、不意に母親の精神が限界を迎えた。

 母親は信じられないくらいの激しさで美朱に怒鳴り散らした。

 美朱は大きな声で泣くことしかできなかった。

 酷い言葉で自分を罵る母親が許せなかった。

 姉のように優しい言葉を掛けてくれないことに怒りを覚えた。


 だから。

 幼い美朱は母親に復讐することにした。

 美朱は家の階段にビー玉を転がした。ひとつ、ふたつ、みっつ、と。


 ママがこれを踏んで階段から落ちればいい。

 そんなことを考えながら。


 そして、美朱の思惑どおり母親は階段から転落した。

 その姿が滑稽で美朱はケラケラと笑い声を上げた。子供らしく無邪気な表情で。

 幸い、というべきなのか、母親の怪我は軽症で済んだ。

 しかし、母親のものとは比べ物にならないほどの大きな疵が家族の間に残った。


 両親は美朱を腫れ物扱いするようになった。両親にとって、娘の異常行動は既に許容範囲を超えていた。

 そして、両親が美朱から距離を取るのと反比例して葵は妹を溺愛するようになった。

 美朱も両親から疎外される孤独感を姉の愛情で埋め合わせた。両親はそんな娘達をつとめて無視した。


 やがて、家族の関係は歪んだ形で安定したが、美朱の高校進学を契機に、姉妹は生まれ故郷である此乃町このちょうに戻った。


 生まれた町の、幼い頃に遊んだ思い出の公園。

 住宅街の片隅にぽっかりと空い穴のように存在する公園。

 そこで、美朱は宙樹ひろきと出会った。


 もう、おかしなモノは視ない。高校に入学したら「幻視少女」はやめにしよう。おねーちゃんにもう負担をかけたくないから。そう、決めたのに。決めた筈なのに。美朱は宙樹を見つけてしまった。


 ああ、ダメだな。

 こんなふうだから私はおねーちゃんに嫌われてしまったんだ。


 過去を繰り返す夢の中で美朱は自分の行いを後悔する。


 でも、見つけてしまったものは仕方ないよね。

 今更、宙樹先輩とに出会いをなかったことにはできないのだから。


 ああ……。


 過去を繰り返す夢の中で美朱は宙樹との思い出を反芻する。


 学校の屋上で何回も一緒にお弁当を食べたこと。

 姉を労うための料理を教えてもらったこと。

 お気に入りのカフェに二人で行ったこと。

 カフェのメニューに書いてる値段を見て宙樹が目を丸くしたこと。

 子供の頃によく遊びに行った公園で女の人の死体を発見したこと。

 電話をしたら宙樹が直ぐに駆け付けてくれたこと。

 それが、とても頼もしかったこと。

 二人で海に行ったこと。宙樹のお弁当が美味しかったこと。

 二回目の海がなんだかデートみたいで内心はドキドキしたこと。

 宙樹がフカキドンのキーホルダーをプレゼントしてくれたこと。


 透明な笑顔を浮かべるあの先輩は沢山の思い出を自分にくれた。

 それが、とても嬉しかった。美朱はそう感じる。


 だけど——。

 

 そこで、美朱は思い出す。

 自分が今よりもっと幼かった頃に、実は宙樹と出会っていたことを。

 あの思い出の公園で、幼い宙樹と出会っていたことを。


 公園の滑り台の前で、お父さんが死んだ! ぼくが殺したんだ!! と泣き叫んでいた少年。

 瀕死の仔猫の頭を潰して小さなお墓を作ってくれた少年。

 母親と仲直りするように諭してくれた少年。


 少年とまた一緒に遊ぶ約束をしたけど、引っ越しのせいで、その約束が果たされることはなかった。

 なのに、私とあの少年——宙樹先輩は再会してしまった。結局、長い時間を経て約束は履行された。

 

 更に。

 美朱は忌まわしい記憶を思い出す。

 間接的とはいえ、自分が宙樹の父親を殺してしまったことを。

 公園の滑り台の階段に悪戯で転がしたビー玉を踏んで宙樹の父親は転落した。


 私はお母さんを殺し損ねた悪戯トラップで、宙樹先輩のお父さん殺していたんだ。

 これは、一体、何?

 神様が仕掛けた意地悪なパズル?

 

 ああ、もう、どうでもいい。

 何もかも手遅れだ。始めから全部終わっていたんだ。

 私は、宙樹先輩に会う資格を永遠に失ってしまった。いや、もともと、資格なんてなかった。


 それに、私はおねーちゃんの人生を台無しにした。

 おねーちゃんをお母さんとお父さんの代替品にして依存した。

 おねーちゃんは甘える私に毒されておかしくなってしまった。

 暴力を振るわれるのも当然なんだ。私がおねーちゃんを壊したのだから。

 おねーちゃんは私に復讐する権利があった。


 このよく分からない地下室で、私が殺されるのは当然の結末だ。何故なら、これは私の罰だから。

 全部、幻視少女をやめられなかった私への、おねーちゃんを壊した私への、宙樹先輩のお父さんを殺した私への罰なのだから。


 私はきっとボニーのようにはなれない。宙樹先輩は私のクラウドにはなってくれないから。宙樹先輩のお父さんを殺した私にそれを望む権利はない。

 宙樹先輩と同じトロッコに乗って一緒に逃げることもできない。

 私のトロッコは地獄行きだ。そんなものに宙樹先輩を乗せるわけにはいかない。


 先輩はあの映画を観てくれたのかな。私の大好きな二本の映画。『俺たちに明日はない』と『小さな恋のメロディ』。感想はもう聞けそうにない。それを残念に思う。


 ああ。

 先輩に会えないのが悲しい。

 ひとりぼっちで死ぬのは寂しい。


 おねーちゃんはどうだろう。

 おねーちゃんはひとりぼっちになった私を憐れんで、一緒に地獄行きのトロッコに乗ってくれるだろうか。

 

 美朱は夢の中でそんなことを考える。



 ※



 突如、奇声を発しながら暴れ始めた葵に灰邑はいむら勅使河原てしがわらは動揺を隠せなかった。二人は騒めく影を宥めるのに手一杯だった。


 ブギーマンの花嫁を絞め殺す役目を仰せつかった黒いドレスの女は、床に突っ伏したままピクリとも動かない。


 呆気に取られる宙樹の頭の中に雑音ノイズが走った。


『おいおい、どうなってるんだこれは』


 葵は獣のような叫び声を上げながら地下室の影に掴み掛かる。

 灰邑と勅使河原は必死に葵を止めようとするが、無駄な努力だった。

 葵は既に正気を失っていた。

 地下室を破壊するまで止まりそうにない勢いだった。さながら小さな嵐のようだった。



 ※



 倉庫代わりに使われている大部屋で複数の影達が囁き合っていた。

 前野まえの大迫おおさこ、星姉妹を追いかけていた刑事を殺害したブギーマンカルトの信者達が「事後処理」の相談をしているのだ。

 彼・彼女らは権力も財力もある人物で、この殺人を容易に揉み消せる立場にいた。



 ※



 葵の暴走は止まらない。灰邑と勅使河原には、もう、どうすることもできなかった。葵は意味不明な言葉を叫びながら周囲の影を殴り、蹴り、掴み掛かっては地面に引き倒す。影のようなブギーマンカルトの信者達は恐怖に怯え啜り泣く。宙樹はこの混乱に乗じて美朱を解放しようとするが、百均のナイフでは拘束ベルトに歯が立たない。宙樹は一瞬迷ったが、反対のポケットからもう一振りのナイフ——「儀式」用のナイフを取り出す。頭の中でブギーマンが『殺せ。その女を殺せ。その女はおれとお前の花嫁だ』と囁く。宙樹は声を無視して、拘束ベルトにナイフの刃を当てる。刃を動かすとベルトはすんなりと切り裂かれた。『いいぞ。ナイフが手に馴染んできたな。そのまま、その女を殺せ』頭の中に雑音が響く。その声は宙樹にしか聞こえない宙樹だけの声だった。


「……毎回毎回前もって死体を準備しようとするから、こんなことになるんですよ。最初から、このナイフで刺し殺すよう命令しておけばよかったのに。どうせ、おれに殺させたら、おれの頭がおかしくなるとでも思ったんでしょ。おれが本当に狂ったら、「器」がどうとか悠長なこと言っていられなくなりますからね」


 宙樹は誰に聞かせるともなく言葉を紡ぐ。


「そのくせ、おれの目の前で星さんを殺そうとして……。一体、人のことをなんだと思ってるんだ。あの芸術家気取りの俗物は……!!」


 そう言うと、宙樹は唇を強く噛んだ。


『なるほど。策士策に溺れたか』

「……あんなイカレポンチが策士なわけないでしょ」


 宙樹はぼんやりとした表情の美朱を抱えて階段を上がる。一瞬、芸術家気取りの異常者と目が合った。葵に爪で引っ掻かれて顔が傷だらけだった。なんだか助けて欲しそうな目をしていたが、当然のように無視した。


 地上の階に出る。館の玄関に向かって進む。途中、人間の死体を「処理」しているブギーマンカルトの信者達に出会う。信者は宙樹から目を逸らす。ノコギリで死体を切断する彼・彼女らはブギーマンの器である少年を直視できないようだ。恐れ多いとでも思っているのだろう。床に転がる死体の顔に見憶えあったが、詳しく思い出すことはできなかった。目の前で繰り広げられる痛ましい光景から宙樹は目を逸らし、玄関に急ぐ。血の匂いが濃い。早く外に出たい。美朱も辛そうな表情だった。



 ※



 美朱は、ぼんやりとした頭で、また視なくてもいいモノを視たことに小さく溜息をつく。

 地下室で蠢く無数の不気味な影とバラバラに解体されていく三つの死体。うちふたつの顔に薄っすら見憶えあったが、詳しくは思い出せなかった。

 どうして、私はこんな悪いユメばかり見つけてしまうのか。

 多分。いや、きっと。これが宿痾と呼ばれるモノなんだろう。そのことに思い至った美朱は自嘲めいた薄笑いを浮かべる。

 

 そこで美朱は空気のように透き通った少年が自分の体を支えていることに気付く。

 永遠に会う資格を失ったと思った少年が必死になって自分の体を支えていることに気付く。


 どうして宙樹先輩がここに……?

 美朱は訝しげに顔を歪める。


 そうか。

 宙樹先輩もおねーちゃんと同じだ。

 お父さんを殺した私に復讐するために、ここに来たんだ。


 ああ。私はもう自分の罪から逃げられない。

 美朱は覚悟を決める。

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