4‐3
夕方――。
彼に電話をかけてくる人間は少ない。アドレス帳に登録してある番号といえば、去年まで世話になっていた遠縁の親戚と、現在の後見人である篤志家、あとは騒々しい後輩の少女ぐらいのものだ。
宙樹はスマホを取り上げ着信番号を確認する。後輩の少女――
何の用事だろう? また、料理のアドバイスが欲しいとでも言ってくるつもりだろうか。
「はい」
「……あ、宙樹先輩?」
「そうですよ。他に誰がいるんですか?」
「ねぇ、今、時間ある? ちょっと見て欲しいモノがあるんだけど……」
「どうしたんですか急に? おれは大絶賛夕食の準備中ですが?」
宙樹は調理台の方をチラりと見た。
そこには小麦粉で薄化粧を施された豚ロースの切身が次の行程を今か今かと待ち構えている。
今日の夕飯はトンカツだった。
「あのね、電話じゃ話しにくいことなんだ。これから出て来れない?」
「そう言われても夕飯の準備が……」
「いいからっ!」
有無も言わさぬ調子だった。
美朱の剣幕に宙樹は困惑したような表情を作る。
「……ひょっとして、トラブルですか?」
「ねぇ、先輩。信じてもらえないかもしれないけど、私、本当に我慢しようと思ったんだよ?」
「星さん、どうしたんですか?」
「でも、やっぱり無理だったみたい。人間はそう簡単に変われないんだね。これじゃ、また、おねーちゃんに迷惑かけちゃう……。私、どうすればいいのかなぁ……」
「星さん、大丈夫ですか? 少し落ち着いてください」
さっきから後輩の言葉が要領を得ない。明らかに様子がおかしい。
「おねーちゃんや友達には相談できないし、宙樹先輩ぐらいしかお願いできる人がいなくて……」
やはり放っておくわけにはいかなそうだ。
「分かりました。これから向かいます。場所を教えてください」
美朱が伝えてきた場所はあの公園だった。
五月の頭にふたりが出会った公園。
宙樹の父親が命を落としたあの公園——。
※
「星さん!」
公園で美朱を見つけた宙樹が駆け寄る。
「あ、先輩」
ぼんやりとした顔で自分の名前を呼ぶ後輩に宙樹は胸がざわつくのを感じた。
「何があったんですか?」
「あれを見て」
美朱が公園の一角にある茂みのほうを指差した。
宙樹は訝しげな表情で後輩の示したほうに視線を送る。
「……ぐっ!?」
宙樹の喉から呻き声が漏れた。
そこに、人間が倒れていたからだ。
草木の間からはみ出た頭をこちら側に向けて、薄暗くなった空を仰ぐように寝転がっている。女性のようだ。多分、まだ年若い女性。腹のあたりで祈るように手を組んでいる。瞳にもう光はない。それは、この世界から永遠に喪われてしまった。
開いた口から覗いた舌は黒く変色しており、グロテスクな怪物のように見えた。
宙樹は心臓が飛び跳ねるのを感じた。自分の心臓が、体を突き破ってどこかへ行ってしまいそうだった。宙樹は深呼吸を繰り返して、何とか平静を保とうとする。
「私がやったわけじゃないよ?」
「言われなくても分かってますよ……」
宙樹は女性を観察する。人間としての尊厳を剥ぎ取られ、モノに還元された女性の体を観察する。
そして、女性の開け放たれた胸に、ナイフが刺さっているのを発見する。
それは、何の変哲もないカッターナイフだ。文房具屋か百円均一ショップで買えそうな、折刃式のカッターナイフ。その柄が、青白い胸元から延びていた。
『おいおい、どうなってるんだこいつは』
どこからともなく、羽虫の翅が擦れるような声が聞こえてくる。
「……宙樹先輩?」
「いえ、何でもありません」
宙樹は怪訝な顔の後輩を安心させるために微笑もうとするが、きこちない表情を顔に貼りつかせることしか出来ない。
「星さんは、どうしてこの公園に?」
「理由は、ないよ……。ただ何となく」
彼女は、ただの気紛れでこの公園に足を運び、ただの偶然で死体の第一発見者になったのか。
そんな、悪夢めいた偶然があるというのか。
いや。
世界は時々、人間に対して洒落では済まない悪戯を仕掛けてくる。
あり得ない話ではないのだ。
「警察に通報は?」
「まだしてないよ。宙樹先輩が来てからした方がいいかなと思って……」
宙樹は後輩の言葉に短く嘆息すると、ズボンのポケットからスマホを取り出して、110番通報をした。
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