7-3

 目の前でフワフワとした笑顔を浮かべる男に宙樹ひろきはいかなる感情も抱いてない。


「最近、学校はどう?」

「普通ですよ」

「テスト近いんだよね? どんな感じ」

「特に。いつもどおりですよ」


 男の虚無のような質問に対してただ機械的に返答するのみだ。


 目の前の男——牟田口むたぐち尚哉なおやは、宙樹の態度に特に気を悪くしたような素振りも見せずにただ満足そうに頷いている。

 

 これは宙樹がこの世界で生きて行くために必要な儀式だった。もう一年以上続いている。

 幼い頃に両親を亡くし、親戚からの支援も打ち切られた宙樹にとって唯一のライフライン。それが目の前に座る牟田口尚哉という男だった。


『相変わらずうるさい男だな。どうする? もう、ひと思いに殺してしまうか?』


 頭の隅から金属が擦れるような不快な声が囁きかける。


「うるさい。黙れ」

「ん? 何か言ったかい?」

「いえ。別になんでもありません」

「そう? ならいいけど」


 牟田口はそう言うと好物の栗饅頭を一口齧った。

 場所は宙樹の住むマンション。そのリビングだ。

 時間はもう夕方の六時半を過ぎていた。


「ところで、いつものなんだけど……」


 牟田口の眠たそうな目が、一瞬、剃刀のように細くなった。

 窓から届いた西日が男を顔を赤く染める。

 宙樹の背を一筋の汗が伝う。

 これも、儀式だ。これも、生きるために必要な行為なのだ。宙樹はそう自分に言い聞かせる。


『お前も馬鹿だなぁ。そんなヤツの言うことに従う必要ないのに』


 軋むような声が宙樹を宙樹を嗤う。


『もう、殺してしまえ。この場所で殺してしまえ。アイツだってそれを望んでいるんだろ?』


 宙樹は頭に空いた昏い穴から届く声を務めて無視しようとする。

 どうして自分だけこんな目に遭わなくてはいけないのか。同年代の少年少女が決して背負うことのない困難。

 

 不条理。

 理不尽。

 不公平。

 

 そんな言葉達が脳裏を掠めていく。

 けれど、仕方がない。おれは両親を殺している。卑しい殺人者だ。これは、その代償なのだ。罪には相応の罰を。そうしなければ、世界は秩序を失ってしまう。それだけは、避けなくては。秩序を失った世界はただの荒野だ。そんな場所で人は生きられない。


 宙樹は自分が恐ろしい強迫観念に囚われていることを心の片隅で理解していた。

 けれど、理解しているからといってどうにかなるものではないのだ。

 宙樹は既に色々なモノを諦めた人間だった。


「宙樹くん?」

「大丈夫です。分かっていますよ」

「そっか。それなら問題ない。細かい日程は後ほど伝えるのでよろしくね」


 牟田口が明るい笑顔を作る。

 

「はい」


 宙樹は無表情で答える。


 自分が誰かに生かされている事実をいやがうえにも実感させられる。

 母親に続いて父親を喪った宙樹の保護者となった遠縁の女性は、宙樹が中学を卒業すると同時に彼の養育から手を引いた。義務教育の終了までは面倒を見るが、それ以降は自分の関知することではない、というのが彼女の弁だった。元々、子供があまり好きではない人だったようだ。それでも、中学卒業まで家に置いてくれたのだ。感謝こそすれ恨みはなかった。なかったが……。


 高校進学を諦めかけていた宙樹の元に、ある日ふらりと現れたのが牟田口だった。

 牟田口は、中学卒業以降の生活の面倒は自分が見ると宙樹に申し出た。

 そこには、ある「条件」が付帯していた。

 例え、その「条件」が信じられないくらい碌でもないものだったとしても、宙樹には承諾することしかできなかった。

 さすがに中卒で働くのは嫌だった。高校に進学したい。できることなら大学にも……。


『人並みの生活と幸福か? お前は、自分にそんなものを望む権利があるとでも思ったのか?』


 そんな権利、ある筈がなかった。

 何しろ自分は見下げ果てた親殺しだ。

 どんなにありふれたモノであっても「幸福」など望むべきではなかった。


 分別をつけろ。

 身の程を知れ。

 これ以上、自分の罪から逃げるな。罰を受けろ。

 お前は死ぬまで世界から省みられることのない空気人間。路傍の石ころにしかすぎない。

 だから、諦めることに決めた。全部、諦めることに決めたのだ。

 

 喉がカラカラに乾いている。なのに、目の前に置かれたグラスに手を伸ばせない。

 金縛りにあったように体がピクリとも動かない。


 ナイフが恋しかった。

 お守りのカッターナイフが。あの、安っぽい折刃式のカッターナイフが。

 ナイフで肌を裂いて自分を罰したかった。そのことで生きている実感を得たかった。

 

 ナイフが肌を滑る感覚が。

 滲み浮かぶ紅い線が。

 痺れるような痛みが。

 それだけが宙樹の実存の証明だった。

 たとえ「空気」のように軽い存在になっても、せめてこの世界の大気に溶けて消えないための。

 彼が最低限ヒトでいるための証だった。


 そこで、ふと。

 本当に、ふと。

 あの後輩のことを思い出した。


 昨日の夕方。

 隣県の海まで遊びに行った帰りの電車。

 悪夢にうなされる自分を救い出してくれた後輩の鈴のように綺麗な声を思い出した。


 ナイフはもういい。

 そんなモノよりも、後輩に——美朱みあかに会いたいと思った。

 彼女の澄んだ声で名前を呼ばれたい。

 あの星のように煌めく大きな瞳でじっとつめられたい。

 そう思った。


『お前はまた何かを求めるのか? 自分にそんな権利がないことはもう充分理解している筈だろ? もう、全部諦めろ』


 宙樹の中の怪物が宙樹のことを嘲笑う。

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