1.宙樹と美朱 あるいは屋上の昼食会

1-1

 空嶋からしま宙樹ひろきは、生まれつき存在感かげの薄い少年だった。


 勉強も運動神経も平均。

 身長、体重、ついでに髪の長さも平均。

 強いて言うなら黒いセルフレームの眼鏡が個性になるのかもしれないが、それすらも量販店に行けばいくらでも見かけるありふれたデザインのものだった。


 友人と呼べるほど付き合いの深い相手もいない。

 クラスメイトどころか担任ですら頻繁に宙樹の存在を忘れる。

 朝の教室や廊下で挨拶するたびに、路傍の石ころにいきなり話しかけられたような驚き表情を見せた。


 その反応に宙樹は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 彼はとっくに他人の記憶に残る努力を放棄していた。


 幼い頃からそうだった。

 人々の認識の外に在り続け、道端に転がる石のように捨て置かれるだけの存在。

 誰からもかえりみられない、まるで空気みたいに無色透明な存在。

 それが、空気少年・空嶋宙樹だった。



 ※ 



 そんな空気少年の生活に変化が起きた。

 変化のきっかけはある少女との出会いだ。


 少女の名前はほし美朱みあか

 彼女に声をかけられたのは一週間ほど前のことだった。


 満開だった桜が散って半月ほど経った五月上旬。

 宙樹が近所の公園で物思いにふけっていると。


「あの……大丈夫ですか?」


 宙樹の顔をのぞき込みながらそう声をかけてきた少女——美朱の表情は、他人を心から気遣う人間の表情に見えた。


「へっ……? うへあっ!?」


 そんな表情を自分に向ける同年代の女性と縁遠い人生を送っていた宙樹は、挙動不審にならざるを得なかった。


「あ、めっちゃ面白い顔と声!」


 少女は特に気にしたふうではなく、屈託ない笑顔を見せながら言った。


「いや、別に普通ですけど!?」


 宙樹はあたふたとした調子で彼女の言葉を否定する。


「鳩が豆鉄砲食らったみたいな表情だよ! 面白い!」


 少女はそう言うと楽しそうな声で笑った。


「具合が悪そうだったから声をかけてみたけど大丈夫そうだね。……って、何でカッターなんて持ってるの?」


 形の良い眉をわずかにひそめ聞く。

 その視線は宙樹の手元に注がれていた。

 折刃式のカッターナイフをきつく握りしめた手に。


「あばばばばばばばっっっ!! こ、これは何でもないんですぅー!! 別にカッターの刃先を見てると落ち着くとか、そんな変な趣味があるワケじゃないんですぅー!! おれは善良で常識的な一般市民なんですぅーー!!!」


 気が動転した宙樹は聞かれてないことまで早口でまくしたてる。

 全身から脂汗が吹き出し視線が宙を泳ぎまくっている。


「カッターの刃を見てると落ち着くの?」


 宙樹は水飲み鳥のように勢いよく頭を上下にふる。


「おまじないの一種なんだろうね。分かるな、そういうの……」


 そう言いながら真っ直ぐに宙樹の目を見る。

 アーモンド形の大きな瞳は黒目がち。

 じっと見つめているとそのまま吸い込まれそうな気分になる、ブラックホールめいた瞳——。


 返す言葉が見つからない。宙樹は緊張で鼓動が早くなるのを感じた。

 ふたりの間を五月の生ぬるい風が通りすぎていく。

 空気が黴臭い。宙樹はくしゃみをすんでのところで堪えた。

 遊具シーソーで遊ぶ子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。


「……カッター、そろそろしまいなよ。さすがに子供の前で出しっぱなしはダメでしょ?」

「そ、そうですね……」


 宙樹はカッターナイフの刃を収めスボンのポケットにしまった。


「その学ラン、どこかで見たことあると思ったら、私と同じ学校なんだね」


 宙樹も少女の着ている制服に見憶えがあった。

 黒に近い濃紺のセーラー服とベージュのカーディガンの組み合わせ。

 宙樹が通う都亜留とある高校の女子生徒の制服だった。


「私は今年入学した一年生だけど、あなたは?」

「おれは二年生です。一応、先輩になりますね」

「え、そうなの!? 勝手に同い年かと思ってた……じゃなかった、思ってました」

「……別にタメ口でもかまいませんよ」

「先輩は誰にでも丁寧語なの?」

「そのほうが楽なので」

「そういうものなの?」

「そういうものなんですよ」

「ふーん……。あ、自己紹介がまだだった! 私は星美朱といいます。先輩の名前は?」

「空嶋宙樹です」

「オーケー! よろしくね、空嶋先輩!」

「……何をよろしくするんですか?」

「さぁ?」


 美朱は首をかしげながら短く言う。

 白い頬を包むやわらかな髪がふわりと踊った。

 

 宙樹は動揺を隠すことができなかった。

 誰にも視られるはずのない「空気少年」の姿をはっきりと認識する少女の存在に。


「私、空嶋先輩とはまあまあ長いお付き合いになると思うの!」


 後輩の少女が瞳をキラキラと輝かせながら言った。

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