8-2

「ねぇ、宙樹ひろき先輩。『小さな恋のメロディ』って映画知ってる?」

「知りません。初めて聞くタイトルですね」


 宙樹の返答に後輩は苦笑いを浮かべながら「そっか」と呟く。

 その声にいつもの太陽のような明るさはなかった。


 平日昼前の電車はガラガラだった。

 まるで、世界中で二人っきりになったような錯覚を覚える。


「それは、有名な映画なんですか?」

「うーん、本国のイギリスでは大ゴケだったみたい。でも、日本ではかなりヒットしたみたいだよ。今でも動画配信で観ることができるくらいだし」

「そうなんですか」

「すごくいい映画なんだよ。私は、特にラストシーンが好きでさ」

「どんな、ラストなんですか?」

「宙樹先輩は小説とかアニメとか映画のネタバレは気にしない派?」

「おれは、全く気にしないタイプですね」

「そうなんだ。ちなみに、私はメチャクチャ気にする派。まぁ、いいか。もう半世紀以上前の映画だし。私や先輩が生まれるよりもずっと前の映画なんだよ」


 美朱みあかはそう言うと宙樹に小さく微笑みかけた。

 その力のない笑顔を見て、宙樹は胸が痛むのを感じた。


「……宙樹先輩、そんな世界の終わりに立ち会った人みたい顔をするのやめてよ」

「でも……」

「そんな、大したケガじゃないって言ったでしょ? 朝、家を出る時にちょっと転んで顔を打っただけなんだから」


 隣に座った美朱がケラケラと笑い声を上げながら宙樹の肩を叩く。

 宙樹には、その姿が無理をしているようにしか見えなくて、いたたまれない気持ちになった。


 美朱は「転んで顔を打っただけ」と言っているが、とてもそんなふうには見えなかった。


 左目の下と右の頬に貼られた絆創膏。

 唇の右端にできた赤黒い切り傷の跡。

 左の頬と顎の下に浮かんだ青い痣。


 宙樹には、美朱の白い雪のような肌が、心ない人間に踏み荒らされたようにしか見えなかった。


「……それで、映画の話の続きなんだけど、物語の最後にね、主人公の男の子とヒロインが二人でトロッコに乗って逃げていくの。どこまでも、どこまでも。まるで、世界の果てに向かって二人で駆け抜けていくみたいに。それが、すごくロマンチックに思えてさ」

「どうして、ふたりはトロッコで逃げることになったんですか?」

「主人公とヒロインはお互いのことが大好きなんだけど、周囲の大人達が二人の仲を認めなかったの。何しろ、二人とも小学校中学年ぐらいの年齢なんだもの。酷いよね。互いを想い合うことに年齢なんて関係ないのに。だから、二人でトロッコに乗ってこの不自由な世界から脱出するしかなかったんだよ」


 美朱はそこで一旦言葉を切ると小さく溜息をついた。


「大人達に反抗するために、男の子の親友やクラスメイト達が力を貸してくれるんだけど、そこもすごく素敵なんだよね」


 親友やクラスメイトの力か……。

 空気人間のおれには一生縁のないモノですね。

 宙樹は「ふへ」と苦笑いを浮かべた。


「宙樹先輩って、時々、ビックリするくらい卑屈な表情になるよね? それ、やめたほうがいいよ」


 美朱が呆れたような表情で言う。


 いや、さすがに「卑屈」は先輩に向かって失礼でしょ。

 宙樹は心の中でツッコミを入れた。


「どんな時でも、笑顔でいなくちゃね。そうしないと、幸福がどっか遠くへ逃げていっちゃうよ。私達はさ、幸せになろうよ」


 そう訴える後輩の表情が今にも泣き出しそうに見えて、宙樹は自分の心がナイフで切り刻まれるような痛みを感じた。


ほしさん……」


 どんな言葉をかければ、今の後輩を慰めることができるのか。

 宙樹には皆目検討もつかなかった。


「車が、さ。木っ端微塵に吹き飛ぶの。お手製の爆弾で」

「えーと、反社かテロ組織の話でしょうか……?」

「違うよ! どうして私がそんな話をするの!? 映画の話の続き! 男の子の友達に発明好きの子がいるんだけど、その子はずっとお手製の爆弾を作ろうとして失敗していたの。だけど、大人達との乱闘中に投げた爆弾が見事に爆発するんだよ。それで、主人公のお母さんの愛車を跡形もなく吹き飛ぶの。そこも、大好きなシーン」

「……思ったよりもバイオレンスな映画なんですね。大人と子供にわかれて仁義なき戦いですか?」

「別にそこまでバイオレンスじゃないしヤクザさんも関係ないから!」

「冗談ですよ! そんな全力で叩かないで下さいって!! 肩が……肩が砕ける!!」

「もう、宙樹先輩はオーバーだなぁ。私の細腕にそんな力があるわけないでしょ!」


 美朱がケラケラと笑った。


「それでね、途中で男の子とヒロインが学校を抜け出してデートするシーンがあるんだけど、場所はどこだと思う?」

「そうですねぇ……。ベタな解答ですが、遊園地とか?」

「うーん、惜しいなぁ。それだと、半分正解かなぁ」

「半分? 他にもどこか行くんですか?」

「そう!」


 美朱が期待に満ちた眼差しを向ける。


「えーと、買い物に行くとか?」

「ぶっぶー! 違いまーす!」


 まだ傷跡の残った唇を尖らせながら美朱がおどけた調子で言った。


「食事に行くとか、カフェでお茶をするとか?」

「どっちも不正解! 早く正解しないと、このサイコウに美味しいチョコミントポッキー、私が全部食べちゃうよ!」

「すみません、歯磨き粉味のお菓子を食べる趣味はないので……。もう、答えを教えて下さいよ」

「もう、宙樹先輩は仕方がないなぁ」


 美朱が好物のチョコミントポッキーを一口齧る。

 そして、いつもの花が咲くような笑顔を浮かべると正解を言葉にした。


「答えは……海です! 二人で学校をサボって遊園地に行って、そのあと海に行くの。ちょうど、今の私達みたいに」


 宙樹と美朱みあかは、これから二人で隣県まで海を見に行くつもりだった。

 先週、二人で出かけた、あの海に——。

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