8-3



「はぁ、いい風ー。心が洗われるねー」


 美朱みあかは両手を大きく水平に広げ、全身で海風を受けている。


「ほら、宙樹ひろき先輩もこっちにおいでよ。……てか、さっきから岩場で何してるの?」

「いえね、このあたりはナマコが大量に獲れるらしいので、少しご相伴に預かろうかなと思って……」

「まさかの密漁!? まさかの反社行為!?」

「人聞きの悪いこと言わないで下さい! おれは、大自然の恵みにあやかろうとしているだけですよ!」

「いや、フツウに地元の人達が怒るやつだと思うよ。それ」

「……やっぱりダメですかね。酢の物や煮物にすると美味しいんですけどねナマコ」

「ダメなものはダメだよ。あと、私、ナマコとか食べたことないし、これから先も絶対に食べることないと思うんだよね。見た目が気持ち悪いし」

「ルッキズム反対! 見た目で食材を差別するのはやめて下さい!!」


 宙樹はキレ気味に叫ぶとその場で地団駄を踏み始めた。

 ナマコを馬鹿にされたことがそんなに悔しかったのだろうか?

 美朱は、小さく首を傾げる。


 さっきから、宙樹先輩のテンションがおかしい。普段よりも三割り増しくらいハイだ。

 美朱は訝しげな表情を浮かべながら、砂浜で暴れる宙樹を見つめる。


 宙樹の様子がおかしくなり始めたのは、電車の中で美朱の出題したクイズの正解を聞いた直後からだった。


 いきなり、顔が林檎みたいに真っ赤になったと思ったら、おでこのあたりからダラダラと大量の汗を垂らし始めた。

 

 美朱は、思わず通学用リュックの中から制汗スプレーを取り出し、宙樹めがけて勢いよく噴射してしまった。


 唐突のことに驚いた宙樹がロケットのように座席から飛び上がる姿が面白くて、美朱は大きな声を上げて笑ってしまった。


 電車が貸し切り状態だったから良かったようなものの、改めて振り返ると迷惑行為以外の何物でもなかった。どう考えても高校生がやることではない。これにはさすがの美朱も反省した。


「この海ってさ、人が全然見当たらないよね……」


 世界中で二人っきりになったみたいだと美朱は思う。

 あの新型ウイルスと人殺しの王様ブギーマンが自分達以外の人々を全て殺し尽くしたあとの世界はこんな風景なのだろうか? あるいは、終末戦争で世界が滅び去ったあとの風景? 潮騒に耳を傾けながら、美朱は空想にふける。


「人間はいないけど、ナマコなら沢山いますよ。ほしさんにもお裾分けです」

「だから密漁は反社行為だからダメだし、私はナマコとかいう気持ちの悪い生き物は絶対に食べないって言ってるでしょ! 早く戻して来なさい!」

「はい……。元の場所にお帰り……」


 宙樹が本気でしょげているよう見えて、美朱は多少の罪悪感を覚えたが、ここは心を鬼にして突っぱねることに決めた。ナマコなんか持ち帰ったところで、家に調理できる人間は居ない。姉でも多分無理だろ。


 姉――。

 その言葉を意識すると、朝の出来事を思い出し、美朱は身が竦むのを感じた。


 いつもは優しい姉があんな酷いことを言うなんて。

 自分の一番の理解者である姉があんな酷い暴力をふるうなんて……。


 いや、違う。

 美朱は心の中で首を横に振り自分の考えを否定する。

 アレは暴力なんかじゃない。きっと、ただの躾だ。

 食事中にスマホを弄っていた自分が悪いんだ。

 確かにちょっとお行儀が悪かったし、姉だって仕事でいろいろストレスが溜まっている。普段より少し怒りっぽくなっていて、力の加減ができなかったんだ。そうに決まっている。


 家に帰れば、きっと、いつもどおりの笑顔で自分のことを迎えてくれる。

 これまでも、ずっと、そうだった。ちょっとしたことでケンカになっても、最後はいつも姉のほうが折れてくれた。


 だから、きっと、今回も大丈夫。

 美朱は自分にそう言い聞かせる。


 だけど――。


 本当にそうなのだろうか?

 それはただの思い込みにすぎず、自分は現実から目を逸らしているだけではないのか?

 ずっと、自分にとって都合のいいユメていただけではないのか?

 ずっと、甘く優しい幻に囲まれ、その中でフワフワと微睡んでいるだけではないのか?

 不意に、そんな考えが美朱の脳裏を掠め、背中を濡れた手で撫でられたような悪寒が走り抜けていく。


「星さん、どうしたんですか?」


 宙樹の声で彷徨い出した美朱の意識が現実に引き戻された。


「……なんでもないよ。だから、そんな捨て犬みたいな顔しないで」

「……おれ、そんな情けない顔してますか?」

「うん。ごめんね。私のせいで心配ばかりかけて」

「そんな……」


 宙樹の今にも泣き出しそうな顔を見て、美朱は斬期の念に囚われる。


 ああ、またやってしまった。

 本当は、誰にも迷惑をかけたくなかったのに。

 本当は、誰にも心配させたくなかったのに。


 どうして、もっと上手にできないのだろう。

 どうして、もっとうまく生きられないんだろう。

 自分がもっとちゃんとやれたら、大切な人達を悲しませずに済むのに……。


「私は、大丈夫だから」

「……嘘をつくのはもうやめて下さい。とてもそんなふうには見えませんよ。そもそも、今朝から様子がおかしかったでしょ。急に学校をサボって海を見に行こうだなんて言い出して。顔だって怪我だらけだし、それで心配するなとか言われても無理に決まってますよ」

「ごめんね……」


 海風が二人の間を吹き抜ける。

 美朱は、眼鏡のレンズの向こう側で瞳を潤ませている年上の少年を愛しく感じた。

 この優しいヒトを、もう決して悲しませたくないと心の底から思った。

 

「いいですよ。星さんの発言と行動が突拍子もないことは既に学習済みなので」

「宙樹先輩、ありがとう。私は、本当にもう大丈夫だから。先輩が泣く必要なんてないよ」


 美朱はそう言うと、宙樹の体をそっと抱きしめた。

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