8.ナイフ・病原菌・少年・殺人・少女

8-1

「これは、一体どういうことなんでしょうかねぇ、ほしさん?」


 聞き憶えのある声にあおいが振り返る。

 そこには、タヌキのような腹をした中年男が立っていた。


「刑事さん……。どうしてこんな所に?」


 タヌキ腹の中年男——K県警捜査一課の刑事・前野は芝居がかった仕草で肩をすくめた。

 前野の背後から見憶えのある若い刑事が現れると、一瞬、険しい表情を見せた。


「ショカツに連絡を」

「はい」


 若い刑事は短く答えると玄関の方に向かった。


 一体、誰が警察に通報したのだろう。当然、葵ではない。……筈だ。


 葵は自分の記憶が判然としなことに気付いた。

 私は、この部屋にどれくらい一人でいたのだろう。

 一人?

 いや、違う。この部屋にはあの女がいた。


 前野は「失礼」と一言断ってから葵の横に並ぶと、目の前に横たわる若い女に目をやった。


「刑事さん、彼女は……翠川みどりかわさんは、亡くなっているんですよね?」

「そのようですな」


 白いワンピースを着た若い女——翠川みどりかわ絵梨花えりかは、畳の上に横たわったままピクリとも動かない。


 その表情は安らかで、一見すると眠っているようだったが、胸元から伸びたナイフの把手ハンドルと、大輪を咲かせる紅い血の花がその可能性を否定していた。


「私、翠川さんに誘われたんです。自分達の集会に参加してみないかって……」

「ふむん。星さん、貴女はここで何が行われるかを知っていたんですね?」

「ええ……」


 刑事の質問に小声で答えると、葵は目の前で横たわる女の死体に視線を戻した。


大迫おおさこ——後輩の刑事が所轄署に連絡を入れています。もうじき、鑑識班が到着します。貴女には第一発見者として署の方でお話をお伺いすることになります」

「……妹のときはその場で聴取をしてすぐに解放してくれましたよね?」


 葵は翠川の死体を凝視したまま、前野に質問する。


「妹さんは未成年でしたからな。成人である貴女と同じように扱うワケにはいかんでしょ」

「それは……確かにそうですね」


 気怠げな声で葵が答える。


 頭がぼんやりとする。

 足元がグラグラとしてまるで現実感がない。

 まるで、白昼夢の中を彷徨ってるみたいだ。


 それにしても、翠川は——あの鮮血の花嫁は、どうしてあんな美しい姿をしているのだろう。

 胸元に咲いた紅い花がブーケのように見える。

 ああ、翠川絵梨花はブギーマンに見染められたのだな。

 葵にはそのことがなんだかひどく羨ましく思えた。

 

「ご家族への連絡は?」

「妹に電話を……」


 葵は一旦そこで言葉を切った。

 妹のスマホは壊れてないだろうか……。

 場合によっては学校の方に直接連絡を入れなくてはならない。

 

「どうかされましたか?」

「いいえ、何でも。外で妹に電話をかけてきてもいいでしょうか? LINEで伝えるには込み入った話なので」

「どうぞ。ですが、そのままどこかに消えたりしないで下さいね」

「ご心配なさらず。そんなことはしません」


 葵はそう言うと、前野を翠川の死体の元に残して部屋の外に出た。


「星さん、具合の方は大丈夫ですか?」


 大迫が気遣うような表情を浮かべながら聞いてくる。


「ええ。ご心配なく」


 葵はまだ何か言いたそうな様子の若い刑事を無視してスマホを操作する。


 葵の表情がにわかに曇る。妹のスマホが不通なのだ。

 念のため、もう一回かけてみる。

 妹は出ない。

 もう一回かけてみる。

 やはり、妹は出ない。


 葵は衝動的にスマホを地面に叩きつけそうになったが、刑事が自分を見ていることに気付きすんでのところで思い止まった。


「どうかされましたか?」

「妹が電話に出なくて」

「この時間なら授業中では?」

 

 スマホの時計を確認するとまだ11時前だった。

 若い刑事の尤もな指摘に葵は憮然とした表情になる。

 冷静を欠いたことを見透かされたようで、恥ずかしさよりも先に怒りがこみ上げてきた。


「それもそうですね。念のため学校に電話して伝言をお願いしてみます」


 葵は連絡先に登録してある高校の番号をタップした。


 その様子を若い刑事——大迫は黙って見つめていた。


「え、それはどういうことですか!?」


 動揺した声を上げる葵に大迫は身構えた。


「妹が無断欠席なんて、そんなことあり得ません!!」


 無断欠席?

 それくらい高校生なら誰でも経験するものでは?

 大迫も学生の頃は友人達とそれなりにサボって遊んでいたクチだった。


「体調不良? 新型ウイルスですって!? 冗談もほどほどにして下さい!! 感染症対策だってきちんとしているんですよ。うちの美朱みあかに限ってそんなことは絶対にありません!!」


 大迫は葵の剣幕に尋常ではないものを感じた。

 公園での態度といい、妹が関わると冷静ではいられなくなるようだ。


「どうかしましたかな? 随分と大きな声で」


 不審に思ったのか、前野が玄関から半身を乗り出して聞いてきた。


「星美朱が学校に登校していないようなんです」

「ふむむん……」


 大迫の説明に前野が難しい表情を浮かべた。


「周辺を警邏中のパトカーに連絡して捜索させますか?」

「ふむん。ひとまず、自宅のほうに行かせてみるか……」


 前野はそういうと手帳を取り出し、星姉妹の住所を確認した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る