6-4
葵の仕事は出版社の編集者兼ライターだ。彼女の勤め先はマイナーな弱小出版社で、お世辞にも給料が高いとはいえない。幸い副業は容認されていた。友人の編集者やライターから回して貰った細かい仕事で、食い扶持の不足を補っているのが現状だった。
新型ウイルス感染防止のためにテレワークが推奨されていたが、先日、それも打ち切りになった。
毎日、感染のリスクを犯して電車で通勤している。乗客も少しずつ増えている。社員の人命を軽視する会社の方針に不満は募り、忙しいだけで稼ぎにならない虚無の労働にストレスは溜まる一方だ。
それに、最近、自分の周囲を犬のように嗅ぎまわる刑事達の存在も気掛かりだった。といっても、
刑事といえば、つい数日前、妹の
厳密に言うならば、殺人事件の被害者の第一発見者になったのだ。
その事件の犯人は、刑事たちが自分にコンタクトを取るきっかけとなった事件――旧友が被害者になったあの忌まわしい殺人事件――の犯人と同じらしい。そんな噂を耳に挟んだ。
悪夢のような偶然に葵は目眩を覚える。
経緯は違えど姉妹で同じ事件の関係者になってしまったのだから。
妹の美朱は昔から『おかしなモノ』を
イマジナリーフレンドとでも表現すればいいのだろうか。妹にしか視えない空想の友達と頻繁に戯れては、両親や友達に複雑な表情を向けられていた。
葵は年齢の離れた妹である美朱を心から愛していた。
自分の視ているモノが他の子供たちに理解されないことで思い悩む妹を優しく慰めた。
「美朱の眼は他の子たちとは違うんだよ。
美朱はその言葉をいたく気に入ったようだ。
それからは、ますます好んで幻を視るようになった。その体験を周囲の人々に話し続けた。妹の孤立は深まるばかりだった。
葵はそんな妹に優しい言葉を浴びせかけた。それは、砂糖菓子のように甘い言葉でもあった。
美朱は中学校で不登校になり、家で葵が勉強を教えることになった。
真っ直ぐに自分を慕う妹の視線が、葵には何よりも心地良く感じた。葵は姉妹で過ごす濃密な時間を愛した。そんな二人に両親は難色を示したが関係なかった。
妹が可愛い。妹は自分の生き甲斐だ。妹がこのまま健やかに成長してくれたら嬉しい。葵は常日頃からそう考えている。
そのために、娘を腫れ物扱いする親の元を離れて二人暮らしを始めた。
美朱の学費以外、親からの支援は一切受けていない。本音を言えばそれすらも業腹だったが、葵の薄給では妹の学費を全て賄うのは不可能だった。
それでも、自分は最後まで美朱の面倒を見るつもりだ。私は裏切り者の両親とは違う。
裏切り――。
最近、妹の様子がおかしい。
毎日楽しそうでケラケラとよく笑う。私がこんなに苦しんでいるのにどんな了見だ。
……それはいい。自分が選んだことだから。
今日も、どこかへと遊びに行った。私が砂を噛むような労働しているのを尻目に。
お前が遊びに行くための小遣いを誰が稼いでいると思っているのか……。
葵は妹の後ろに男の影を感じていた。
それとなく探りを入れたこともあったが、妹は男の存在を否定した。
本当だろうか? 信用できない。妹はなかなかの器量良しだ。悪い男が寄って来ないとも限らない。
高校に入ってから性格もだいぶ落ち着いた。昔のようにおかしなモノを好んで視ることも、それを周囲に喧伝する事も少なくなった。「おねーちゃんにもう心配をかけたくない」そうだ。
葵は頭の右側がズキズキと疼くのを感じた。偏頭痛の発作だ。最近、多い。
まるで、頭の中を悪い蟲の群れが這い回っているようだった。
不快だ。全部、不快だ。ストレスしかない。
何もかも許せない。自分の思いどおりにいかないこの世界が疎ましい。
誰も私の期待を裏切るな!
叫び出しそうだった。
「星先輩、ちょっといいっすか?」
葵をギリギリのところで押し止めたのは後輩の男性社員の声だった。
「……どうかしたの?」
努めて冷静に聞き返す。
「頼まれた資料を持って来たっす」
後輩社員が分厚い紙の束を渡してくる。
「ありがとう。助かる」
葵の言葉に後輩は「どういたしまして」と答えると、自分のディスクに戻っていった。
「さてと……」
気を取り直して葵は渡された資料を確認する。
それは彼女が担当している雑誌の特集記事に必要な物だった。
葵の担当雑誌は、俗悪なゴシップや噂話、都市伝説、エログロ短編小説などを掲載する大衆向けの娯楽雑誌だった。
その最新号の特集は『ブギーマン・リザレクション 鮮血の花嫁の伝説』と題される予定だった。
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