5-3
リノリウムの廊下を歩いているうちに少し気分が楽になってきた。
耳障りな声はもう聞こえなかった。
ふぅ、と小さく溜め息をつく。
階段を降り、廊下を進み、また階段を降りてしばらく廊下を進むと、目的の場所に着いた。
目の前の引き戸を軽くノックする。「どうぞ」と応える声が聞こえてきた。
宙樹は「失礼します」と一声かけて部屋に入る。
「あら、
丸い眼鏡をかけた女性の養護教諭が気さくに話しかけてくる。
「具合が悪いので、少し休ませてもらってもいいですか?」
宙樹は用件だけ伝えてさっさとベッドに潜り込むつもりだったが、養護教諭は「少し待ってね」と言いながら、自分のディスクから体温計を持ってきた。
風邪でもない限り検温を求められることなんてなかったのにな……。
宙樹は養護教諭にばれないように小さいため息をつく。
例の新型ウイルスのせいで保健室の利用にあたっていろいろと面倒なガイドラインができたのだ。
体温計が電子音を鳴らす。
養護教諭がディスプレイを確認して「36度2分……」とつぶやいた。
「平熱ですね」
「そう。だったら問題ないわね」
「ベッド、使わせてもらいます」
「どうぞ」
ベッドはふたつ並んでいる。
宙樹は右側のベッドに潜り込んだ。特に理由はない。強いて理由をあげるなら右ききだから。
「……久し振りよね。保健室来るの」
「そうでしたっけ?」
養護教諭に眼鏡を渡しながら宙樹が聞く。
「そうよ。えーと、一ヶ月ぶりくらいじゃないかしら?」
「……よく憶えてませんね」
タオルケットをかぶりながら宙樹が答える。
「もう、自分の体のことでしょ?」
養護教諭が眉にシワを寄せ、たしなめるような調子で言う。
「……すみません」
「別に怒ってるわけじゃないけど、空嶋くんはもう少し自分のことを大事にした方がいいと思うわよ」
気遣うような言葉に宙樹はいたたまれない気持ちになる。
おれにそんな価値はないのに……。
「すみません。少し寝ます……」
「おやすみなさい」
宙樹はタオルケットの中で丸くなる。
少しすると、眠気がやって来た――。
※
「ねこさん、ほんとうにしんじゃったねー」
女の子は少しだけ寂しそうな表情でそう言うと即席のお墓の横に飴玉を置いた。
墓標代わりの石は赤黒く濡れていた。
「これはねこさんのだから。たべたらダメだよー?」
「わかってるよ」
そんな罰当たりなことするわけないだろと宙樹は思ったが口には出さなかった。
宙樹は額から流れる汗を拳の裏側で拭う。
掌は真っ黒に汚れていた。
仔猫を埋めるための墓穴を掘っていたからだ
「ねぇ、あっちであそばない?」
女の子が砂場の方を指さす。
彼女は仔猫に対する興味をすっかり失くしたようだ。
さっきまで、泣きそうな顔をしていたのに……。
大きな瞳を潤ませながら「ねこさんがしにそうなのー」と宙樹に訴えかけてきた女の子は、父親が死んだあの日に病院で出会った女の子だった。
突然の再会に宙樹は戸惑ったが、女の子は特に気にする風でもなく、自分はこの近くに住んでおり、時々、この公園に遊びに来るのだと説明した。
今日は久しぶりに来たのだが、入り口のすぐ近くで血を流して倒れている仔猫を見つけたと、女の子は言う。
小さな生き物は女の子の腕の中で力なく横たわっている。
これは助かりそうにないな……。宙樹は幼心にそう判断した。
「そのねこ、じめんにおいて」
女の子は宙樹の言葉に従う。
宙樹の行動は早かった。そのへんに落ちていた手頃な大きさの石を手に取ると瀕死の仔猫の頭に勢いよく振り降ろした。
ごきゃ、という鈍い音とほぼ同時に仔猫が断末魔の悲鳴をあげる。
小さな生き物は何回か細かい痙攣を繰り返すとピクリとも動かなくなった。
女の子は呆けた表情で「ねこさん、しんじゃったー」とつぶやいた。
仔猫の頭から溢れる赤黒い液体を興味深そうに見つめている。
宙樹は砂場に放置された小さなシャベルを拾うと公園の茂みに穴を掘った。
そこに死骸をそっと寝かせ土をかけていく。仔猫の姿が完全に隠れると血で濡れた石を墓標の代わりにそっと置いた。
「なむー」
女の子が手を合わせる。
「どうしてねこさんをころしたの?」
「かわいそうだからだよ」
「なんでかわいそうなの?」
「いつまでもしねなくて、くるしんでたからだよ」
宙樹の言葉に女のは首をかしげながら「よくわからなーい」と言った。
少しの時間、仔猫の墓をぼんやりと眺めてからふたりで砂場に移動した。
女の子が痺れを切らしたからだ。
「あのねー、わたしママにおこられたのー」
女の子が藪から棒に言ってきた。
彼女の興味は完全に仔猫から砂場に移っていた。
宙樹からシャベルを取り上げ、猛然たる勢いで砂を掘り返している。
「ふーん……」
「あまり、このこーえんにいくなって」
「どうして?」
宙樹は首をかしげながら訊ねる。
「よく、わかんなーい」
「ふーん……」
「ママのこときらーい!」
女の子の言葉に宙樹の身体が震えた。
まるで、死に際の仔猫のように。
「どうしたの?」
女の子が不思議そうな顔で聞いてくる。
「……なんでもない」
宙樹はうつむきながら答える。
「ママがね、かいだんからおちたのー」
「ふーん……」
「おうちのかいだんにビー玉をおいたら、それをふんでころんじゃった!」
女の子が無邪気な表情を浮かべながら、てへへと、笑う。
「そんなことしたら、おこられちゃうよ」
「だれにもバレてないから、へーき!」
女の子の態度はあっけらかんとしていた。
罪のない悪戯ぐらいに思っているのかもしれない。
「やめなよ。そんなことするの」
「えー、ママきらいだしー」
「そんなこといわないで」
「うーん……」
女の子が難しそうな表情でうなる。
「あしたもまたあそんでくれるなら、やめる」
「いいよ。あしたもいっしょにあそぼう」
「わーい! それじゃあ、わたしもママにイタズラするのやめるねー」
女の子は嬉しそうだった。
「じゃあ、わたし、そろそろおうちにかえるから!」
「うん。またあした」
「また、あした!」
少しずつ小さくなる女の子の後ろ姿を見送ってから、宙樹も家に帰ることにした。
家族と過ごした古い家ではない。お世話になっている親戚の家だ。宙樹の足で片道一時間ほどかかる。
夕飯までに帰らないと叱られる。理不尽な暴力をふるわれることはなかったが、躾には厳しいところがあった。
あまり子供が好きな人ではないようだ。正直、新しい家は少し息苦しかった。
だから、この公園にやって来た。父親とよく遊びに来た公園に。
悲しい事故の起きた場所だったけど、それでも何もないよりはマシに思えた。
宙樹は一瞬だけ仔猫の墓を振り返ると駅のある方に向かって歩き出した。
太陽が傾き出している。世界がゆっくりと黄昏色に染まっていく。
これは、宙樹の幼い頃の記憶。
彼は夢の中で遠い日の思い出を反芻していた。
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