3-4
宙樹に手をあげることはなかったが母親の暴力から身を挺して守ってくれることもなかった。
精神が不安定になった母親から罵詈雑言を浴びせかけられても、ぼんやりと笑顔を浮かべながら黙って頷くだけだった。
そうすることで、嵐のような時間をやり過ごせるとでも思っていたのだろう。
人生と言う海原で遭遇する全ての災厄を空獏とした微笑みだけで乗り越えようとした虚ろな航海者。
それが宙樹の父親だった。
まともな父親とは言い難かったが決して悪い人間ではなかった。
少なくとも、妻が死んだあとに宙樹の養育を放棄することはなかったのだから。
ふたりきりの生活は父親の死をもって一年ほどで破綻した。
その後、宙樹は十年近い年月を遠い親戚の元で過ごすことになる。
病室で幼い宙樹が出会ったあの中年女性の家だ。
厳しい家ではあったが少なくとも理不尽な暴力をふるわれることはなかった。
居候としての負い目もあったのか、宙樹は極力目立たない、他人との交流を避ける人間に成長した。
母親から石ころや空気のように扱われたことが影響していたのかもしれない。
あるいは、空っぽの笑顔をかぶることで自分の存在を曖昧にし、災難から逃れようとした父親の影響なのかもしれない。
さまざまな要素が複雑に絡み合った結果、宙樹は「存在感ゼロの空気少年」であることにアイデンティティを見出すようになった。
『それだけじゃないだろ?』
何処からともなく嘲るような声が聞こえてきた。
『お前は、人殺しだ』
その声は幼い宙樹の犯した罪を容赦なく告発する。
『お前は、母親の死を望んだ』
公園のベンチに腰をかけた宙樹の体が震える。
『お前が、おれの名前を呼んだ』
告発者は続ける。
『箱は開かれた。災厄は飛び立った。見てみろ、今や至る所に死が蔓延しているじゃないか』
新型ウイルスによる世界規模のパンデミックは未だに収束する気配を見せない。
メディアは日々、積み重なる死体を数え続けている。
人々はこぞって血と暴力を話題にする。
『これは誰の責任だ?』
告発者が宙樹に問う。
『それは……』
宙樹の全身から脂汗が噴き出す。
体の震えが止まらない。
『答えろ。だれの責任だ?』
声の主は宙樹を攻め苛むのをやめない。
ああ、このままでは自分がおかしくなる。
宙樹はズボンのポケットから折刃式のカッターナイフを取り出す。
これはお守りだ。
不幸や災厄から自分を遠ざけてくれるもの。
もちろん「アイツ」からもだ。
『そんなことをしても無駄だ』
宙樹は告発者の声を無視して小刻みに震える指で慎重にカッターの刃を押し出す。
早く。早く。早く、この刃。
だれかを、何かを、早く!
『
早く! 早くっ!!
血を。
血を見ないと!
何でもいいから、ヒトでもヒトじゃなくてもいいからっ!
血を見せて!!
宙樹は自分のシャツの袖をまくりあげるとあらわになった白い腕にカッターナイフを突き刺した。
鮮血が溢れる。
鋭い痛みが宙樹の思考をクリアにする。
気が付くと彼を告発する声は消えていた。
宙樹は安堵して大きく溜め息つく。
宙樹しかいない公園を吹き抜ける風はまだ黴臭い。そこに鉄の臭いが混ざる。それは死の臭いだ。少年にまとわり付く決して消えることのない死の臭い。
少年の、罪の臭い——。
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