第28話 永野さんの引っ越し
うちのマンションは各フロアに一部屋ワンルームマンションがある。
構造上出来てしまったものらしいが、家賃のわりに狭いのであまり人気がない。
でも一人で暮らすには十分な広さに見えた。
部屋の契約を済ませて、母さんは必要最低限の家電を買い揃えた。
家に来て数日後には引っ越しが決まった。
永野さんが住んでいた事務所のマンションにはハウスキーパーさんがいて、掃除をする必要は無かったようだ。
そして部屋から出たくないから、完全栄養食を食べていたらしい。
今まで事務所にセッティングされた部屋にいた永野さんは、わりと楽しそうにベッドなど購入して部屋を準備していった。
マンションの一階には管理人がいるし、各フロアにエレベーターを止めるためにはカードキーが必要な、わりとしっかりした所なので大丈夫だと思う。
永野さんは引っ越し前夜に俺にもう一つのカードキーをくれた。
「……甘えちゃってごめんね。でも和泉くんに抱っこして貰えると眠れて……安心するの。ちゃんと一人で寝れるように頑張るから」
「無理に頑張らなくていいよ。頑張りすぎた結果だろ」
月明かりの無い深夜。
永野さんはソファーで俺の膝の間に丸まってほほ笑んだ。
このソファーに座って毛布のまま抱っこして永野さんが眠るまで見守るのは日課になっていた。
でもこれからは一人暮らしの部屋になるんだし、さすがに無防備すぎる気がする。
仮にも俺たちは……好き、同士だし? ふれているのは最高に気持ちよい。
でも、毎日お風呂上りだし、めっちゃ良い香りがするし、何しろパジャマは薄い。
柔らかいし可愛いし甘えてくるし、くっ付いて来るし、たまに恥ずかしそうに名前まで呼んでくるんだ。
触れるたびに柔らかくほほ笑んでくれて、しがみついてくる。
甘やかしたい、ゆっくり眠らせてあげたい……でももっと触れたい……思考がグチャグチャする。
でも永野さんの体調を考えたら、こんなのは完全に邪念だ。
邪念去るべし。
俺は無になりたい時は仮想の敵を作って球種シミュレーションをすると決めている。
眠った永野さんを布団まで運んで、まだ営業中の兄貴の店に逃げ出した。
俺は兄貴が出してくれたジンジャーエールを飲んでため息をついた。
「可愛すぎて邪念が生まれ始めた……」
「ぎゃーはははっ!!!! そりゃそーだろうさ。永野さん最近めっちゃ可愛いもんな。特に瑛介の前ではトロトロだもん」
「まずは休ませたいんだ。体も心も疲れてると思うし」
「知ってたけどクソ真面目……」
「俺の必殺球種シミュレーションも、もう敵が尽きてきた」
「何やってんのお前」
「つらい……可愛い……」
「まあ、もうちょっと頑張れよ。もうすぐ引っ越しだろ」
「引っ越ししたら、悪化しないか……?」
「あ、そっかも。テヘ」
兄貴はウインクしてほほ笑んだ。
完全に楽しんでる……。
でもLINEが入り、それを見ると真顔になって、顎で休憩室をさす。
「おっと……これから高橋マネージャーくるから、お前隠れてろ」
「そうなの? 分かった」
俺はジンジャーエール片手に休憩室に入った。
数分後、高橋マネージャーが店に顔を出した。
兄貴は俺が聞こえる席にマネージャーさんを座らせて話し始めた。
「どうでしたか?」
「出ました、すごい量です。ちょっと……信じられないですが、いたる所にありました。長谷部さんは合併予定の
「バレないように何とかなりそうですか」
「何人か信用できる出来る人間と動いてます。合併発表が近いので、それまでに何とかします」
「大変ですね」
「いいえ……何も知らずに合併してたほうが大変なことになってました。三年以上、完全に騙されてました。ていうか私が使ってた部屋にも置いてあって殺意です。まあカメラに気が付いてないフリしてますけど」
「一杯飲まれます?」
「いえ、会社に戻るので。……聖空は大丈夫ですか? あの子ひとりで暮らせるかしら。あ、保証金とか家電……それに高校卒業までの家賃もこちらで出しますから」
「細かいことは全て片付いてからにしましょう。永野さんはうちで見てるから大丈夫ですよ。それに瑛介も居ますから」
「ああー、彼はいいですね、信頼できます。今どき珍しいくらい真面目で誠実ですね。マネージャーとして良い仕事すると思うんですけど、長谷部追い出したら就職してくれませんかね?」
「あ、お断りですー」
「チクショー、仕事に戻りますー!」
ケラケラ笑いながら高橋マネージャーは戻って行った。
兄貴は休憩室の俺に「今はこんな感じ」と言ってくれた。
「データ、消せるかな」
「高橋マネージャーも盗撮されてたなら、死にもの狂いで動くだろうさ」
兄貴に見送られて俺は家に帰った。
部屋に入って耳を澄ませると物音はしない。
壁一枚隔てた所にいる永野さんが、深く眠れていると良いと祈る。
次の日は、朝から引っ越し作業を開始した。
家電が運ばれてきて、ベッドを設置。布団はうちで使っていたものを持って行くことにした。
そして数個しかない私物を持って行ったら、引っ越し完了だ。
電気と水道ガス業者も来て、生活できる空間になった。
兄貴と母さんは日曜も仕事なので出て行き、俺は段ボールの解体を手伝った。
永野さんは冷蔵庫の電源を入れて、嬉しそうに空っぽの中を写メった。
そして俺の横に来て
「ね、スーパー行こう? 駅前にオオセキ。あと薬局も!」
「そうだね、空っぽだもんな」
永野さんは髪の毛をひとつに縛り、野球帽に押し込んだ。
そして大きめのトレンチコートにズボン、そしてマスクとサングラスをした。
ここまですると全く分からない。
外に出ると、冷たい風が吹き抜けてかなり寒かった。もう11月も後半だ。
永野さんが俺のコートの袖をツン……と引っ張る。
手を出すと柔らかく手を握ってきた。小さくて冷たい手。
俺は自分のポケットに繋いだまま永野さんの手を入れた。
すると腕にギュッ……としがみついてきて、サングラスの隙間から俺を見てほほ笑んだ。
大荷物になりそうだったので、まずトイレットペーパーやティッシュ類、100均で掃除用品なども買って部屋に置いた。
そしてまた外に出て食料品を買う。
この辺りは全然分からなかったので、兄貴に指示を貰っていた。
「調味料をガチで揃えても空回りするから、最初は出汁の元と塩コショウ、それに醤油だけでいいよ。明日の朝、目玉焼きとご飯を作る所から始めよう」
指示通り、必要最低限の物を買い、俺はお米を持ち、家に帰った。
永野さんはウキウキとそれを並べたり、買ってきたアイスを入れたりしていた。
というか冬にアイス……? いやよく考えたら兄嫁さんはいつもわざわざコタツを出してアイスを食べていた。
そういうものなのだろう……俺は黙った。
買い物でわりと疲れてしまって、ビーズクッションにだらりと座った。
お……? このクッション、初めて座ったけど、こう身体が包み込まれるようになって……すごいな。
いや、なんていうか、身体が抜けなくないか? 俺がモゾモゾしていたら、目の前に永野さんが来た。
「あ、それ、面白くない? 前から気になってて買っちゃったの」
「いや、なんか身体がはまり込むと抜けないな」
なんとか抜け出そうとしたら、どんどん服が上がって行ってしまう、
それを見ていた永野さんがお腹にツン……と触れた。
くすぐったくて、どっわ!! と叫んで転がったら膝を机にぶつけた。いてぇ!!!
永野さんが笑うので、俺は「じゃあ座ってみなよ!」と促した。
俺が座っていた所には大きな穴が出来ていて、そこに永野さんが猫のように丸まって入った。
「ね? ほら、良い感じでしょ? 落ち着くの」
永野さんは良い感じに丸まっているが……背中が見えている。
俺はその隙間にツン……と触れた。
「もう!!」
永野さんは笑いながらひっくり返ってきて、床に頭をぶつけた。
わりと派手に転がったので、慌てて頭の下に掌を入れる。すると永野さんは逆さになった状態で俺を睨んだ。
いやいや、勝負的には痛み分けでしょ?
その数秒後……永野さんのお腹がクウ……と鳴った。
永野さんはひっくり返ったまま
「……お腹すいたみたい」
と苦笑した。
その照れた表情が可愛くて、俺は床から抱き起した。
やっぱりクッションから抜け出すのは一苦労で、意味なく俺たちは床に転がって笑った。
このクッション、ヤバくない? 魔物だよ……。
俺たちは手を繋いで引っ越し蕎麦を食べに商店街に向かった。
商店街はもうクリスマスソングが流れていて、永野さんが横でハミングしている。
高くて細い声が夜空に消えて行く。
俺はここに居て欲しくて、永野さんの手を引き寄せて、自分のコートのポケットに入れた。
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