第5話 永野さんと休憩室でふたり
「兄貴ーー、兄貴兄貴兄貴ーーー!」
「どうした」
血相を変えて店に飛び込んできた俺を見て、兄貴はキョトンとした。
俺の兄貴は10以上年が離れているので、いつも可愛がってもらっている。
友達より兄貴に話すのが一番頭の中が整頓されるし、落ちつくんだ。
俺は今までの話をすべてした。
学校にいる永野聖空さんという元アイドルのこと。
出会い、そして眠れなくて困っているということ、そしてお礼に……
「今日20時から、休憩室で俺の勉強見てくれるって」
「おいおいおい、一日分の野菜がたっぷりとれるスープ煮込んでる場合じゃねーぞ!!」
「いや、それうちの人気メニューじゃん、作れよ」
興奮してお玉を握ったまま叫ぶ兄に俺はツッコミを入れた。
俺は基本的に一階の母さんの店と、二階の兄貴の喫茶店、両方で流動的に働いている。
母さんの店はオシャレな海外の商品が多く、知識が必要なので女性が多い。
だから商品を出したり、重たいものを運んだりする仕事をメインでしている。
兄貴の喫茶店では掃除や皿洗い、それに料理の下ごしらえをしている。
「休憩室じゃなくて、和室のが広くていいかな」
俺は店の奥のある和室をみた。
店には子連れに対応するために和室が一部屋あるが、基本的にランチタイムしか使われてない。
夜は兄貴がほぼ趣味でしているバーで、常連さんが数人くる程度だ。
休憩室は狭いし、あまりきれいではない。
「瑛介、お前ちゃんと考えろ。店の奥の個室に彼氏でもない男と二人とか怖いだろ。休憩室なら調理場ちかくだし俺の気配もあるから女の子も警戒しないと思うぞ」
「なるほど、そっか。ダテに結婚してないな、兄貴」
俺は納得した。
「フォフォフォフォお兄様と呼べ。お前、それ計算して誘ったんじゃないのか?」
「いや、全然、全く。それに……本当に来てくれると思わなかったんだ」
「ひゅうう~~~!! あまじゅぱぁい。お兄ちゃん嬉しいよ、瑛介の恋バナ聞けて」
「恋バナ……」
俺は恋という言葉に反応した。
兄貴は「え? 違うの?」と言った。
「相手は学校の超有名人だよ。恋とか、それより前に……すごく美人だから、やっぱりただ見てて嬉しいってのが大きい」
「あ~~~まあそりゃ基本的にはそんなもんだよな。俺も
「え……?」
「え? お兄ちゃんクイズに出てくるぞ? 覚えとけ?」
「優しくてお掃除上手な所が好きって言ってたじゃん」
「胸だよ、胸。胸にきまってるだろ」
兄貴は「ほら休憩室片付けろよ」と俺を促した。
おっぱい星人だとは知らなかった。俺は休憩室の片づけを始めた。
掃除を終えて、今日は頼まれていた段ボール畳みを一階の駐車場ではじめた。
一階の店舗は毎日大量の段ボールが出るんだけど、これを分解し続けるのはわりと体力がいる。
そもそも野球をやめて何もする気がなかった俺を「体力ありあまってるなら働きなさい!」とここに連れてきたのは母さんだ。
うちの高校は部活動を推奨していて、生徒の九割が入部している。
種類も豊富で俺も何か入ろうかな……と思ってたけど、やっぱり心が動かなかった。
やっぱりするなら野球がしたいんだ、矛盾してるけど。
だからバイトをしようとは思っていたので別にいいか……と思って始めたけど、特にやる気は無かった。
でも今日はバイト終わってから楽しみもあるし、ちょっとワクワクしている。
野球をやめてからあまりワクワクすることがなくて、それだけで楽しい。
俺は鼻歌を歌いながら段ボールを畳んだ。
仕事を終えてエプロンをロッカーに片付けた。
永野さんは店の場所は知っているが、二階の入り口は知らない可能性が高い。
二階の喫茶店は入り口が分かりにくいのだ。店舗の通りには入り口がなくて、駐車場の横から入る。
表にメニューは置いてあるけど、間違いなく入りにくいし、知らない人も多いと思う。
メインの客層は近所の人で、近所に大きな会社があるので、そこの人たちがランチに使ってくれているようだ。
だから夜は比較的静かで、客は正直少なく、兄貴ひとりで十分まわせている。
店の前で待っていたら「和泉くん」と声がして、永野さんがきた。
永野さんは当然だけど私服で、シンプルなストライプのシャツにGパン姿で、右肩にトートバックを持っていた。
私服だ……私服……と思うけど、俺も私服だ。
家は店から少し離れた場所にあって、いつも着替えてから店に来ている。
永野さんは髪の毛を耳にかけて
「……お兄さんは、大丈夫だって?」
と聞いた。そのしぐさが制服の時とは全く違って大人っぽかった。
俺は
「全然平気。今日もひとりしか客がいないよ」
と喫茶店に入った。
夜は少し薄暗くして営業していて、店の奥では兄貴と常連さんが話していた。
俺は厨房の横にある休憩室に永野さんを案内した。
兄貴と常連さんはチラリと俺の方を見たが、別段騒ぐこともなく、すぐにお酒を飲み始めた。
厨房とは暖簾一枚で繋がっているので、人の気配も声も軽く聞こえてくる。
たしかにこっちのほうが永野さんは安心するだろう。
「狭いけど、どうぞ」
俺は奥の椅子をすすめた。普通のパイプ椅子だけど、あまりに固いので家からクッションをはぎ取って持ってきた。
兄貴の食卓の椅子にはクッションがないが、許してほしい。
永野さんはさっそく俺のほうをむいて勉強の話を始めた。
「何が一番苦手なの? この前した小テストある?」
「うん……なんというか……今度は俺のほうがドン引きしないでほしいという言葉を使う……」
学校のカバンは丸々置いておいたので、そこから五枚のテストを出すと、永野さんが「?!」と目を丸くした。
申し訳ないが、どいつもこいつも50点以下だし、英語に限っては20点というバツバツ祭りを開催していた。
「……やれることがあって嬉しいわ」
永野さんは俺のテストをみて言ってくれた。
「……和泉くん、これ5文型の基本が分かってないわね?」
「うん……」
「第4文系と、第5文系が混乱してるみたいね。第4文系はSVOO、つまりSが人に何かを与える……になるの。第5文系は二つの部分に分けるから全然違うからポイントさえ押さえればすぐにわかるのよ」
「なるほど」
「My friends gave me a watch yesterday……これは与えてるでしょ。だから第4。まとめてみるから混乱するの」
永野さんの爪はきれいに整えられていて長い。たぶんジェルネイルとかそういう世界だと思う。
兄嫁さんと母さんが爪を整えるのが好きで、商店街のネイルケアに週二で通っているので知識だけはある。
まるくて艶々とした指先が、プリントのうえを撫でるように移動していく。
細い指には指輪ひとつなくて、手がしなやかに動く。
「……聞いてる?」
気が付くと永野さんが俺の顔を覗き込んでいた。
目の前に真ん丸な永野さんの瞳と薄い唇。
グロスか何かを塗っているのだろうか、少し艶やかになっていて、思いっきり目をそらした。
俺はこれじゃ意味がない、と軽く頭をふって気合いを入れなおした。
永野さんは俺がどこで転んでいるのが見定めて、丁寧にそこを教えてくれる。
分からないと立ち止まって、その原点にいき、教えてくれるので自分の苦手が見えてきた。
約束の一時間が終わるころには、俺は「わけがわからん」と投げ出していた5文型がかなり解決した。
こんな特別授業が受けられるなら、帰りの時間が25分遅くなってもお釣りがくる。
「あの……こんなちゃんと教えてもらって、一緒に帰るだけでいいのか?」
「私こそ、こんなことがお礼になると思えないけど、本当にいいの?」
「めちゃくちゃありがたいよ。正直野球ばかりしてきて勉強は苦手なんだ」
「……そう、役に立ててうれしい」
永野さんはまた少しだけほどけた。
勉強道具を片付けていると、厨房から兄貴が覗いた。
「……軽くケーキでもどう? 余ってるから」
「……食べる?」
俺が聞くと永野さんは真っすぐに立ち上がって
「お邪魔しています、永野聖空と申します。弟さんにお世話になっています。しかし今日はお金持ってきてないので遠慮させて頂きます」
と言った。その対応は驚くほど大人と仕事をしてきた人で、立ち姿の美しさに俺も兄貴も見惚れていた。
ああ、と兄貴は我に返って
「いや、ケーキは次の日まで持たないんだ。食べないなら廃棄。もちろん無理しなくていいよ」
と言った。永野さんはそういうことなら……と静かに頷いた。
兄貴が出してくれたのはチーズケーキと手作りのジンジャエールだった。
永野さんはいただきます、と丁寧に頭をさげてチーズケーキを一口食べた。
「チーズの味が、濃い……」
兄貴は嬉しそうに、北海道から仕入れてるからね~と笑った。
なにより永野さんが気に入ったのはジンジャエールだった。
父さんが単身赴任で住んでいる山梨では形がわるい生姜が山ほど余っているらしく、それを貰って作っている。
とにかく生姜の味が濃いのに、甘さはこっくりしていて店の人気商品だ。
「これ、ものすごく美味しいです」
「良かった。瑛介ほんと野球バカだから勉強見てもらえると兄貴としても安心です」
「こちらこそお世話になります」
永野さんは立ち上がって頭を下げた。
その頭の下げ方が腰をピシッと折って丁寧で正直かっこよかった。
「暗いから気をつけて」
「ケーキもジンジャエールも美味しかった。ありがとう」
永野さんはもう一度丁寧に俺に頭を下げた。
見事な月夜が空気をほんの少し冷たくしている五月の夜で、輪郭がうつくしく見える。
よく考えたら夜に会うなんて初めてで新鮮だと思った。
永野さんは月夜に照らされて少し目をそらして言った。
「……明日も、環状線の一番前で、待ってていいかな」
「もちろん!」
俺は大きく頷いた。
「明日は首まくら持って行ってもいい?」
「あの飛行機で使うやつ? もちろん」
いつも首が不安定で辛そうだなと思っていたのだ。
「1日40分でもしっかり眠れると、全然楽なの。本当に和泉くんがいてくれると助かる。私にもできることがあって良かった」
あまりに素直に放たれる言葉に、俺はうつむいた。
夜で良かった。ただ居るだけでこんなに感謝されていいんだろうか。
「こっちこそ勉強本当に助かった」
「特製英語カードも作っておくわ。和泉くんの弱点分かったから。明日、電車で……してね?」
「……うん!」
そんなの作らなくて良いから眠ってほしいと思うけど、眠れないのだろう。
俺はよろしくお願いしますと頭をさげた。
本当は家まで送りたいけど、それは嫌がられると思うし、自宅を知られるのを元アイドルの女の子が好まないことくらい分かってる。
俺は姿が見えなくなるまで、永野さんの背中を見守っていた。
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