第18話 目の前にいる君だけでいい

「朝も暑くなってきたな……」


 俺は手に持っていたペットボトルの水を飲んだ。

 30分くらい前に出してきたのに、もうぬるい。

 この前永野さんと走った時に思ったけど、かなり体力が落ちてきている。

 野球をしていたころは毎日トレーニングして10キロちかく走っていたから当然だ。

 一度つけた体力を失うのは辛いので、夏休みの間は朝河原を走ることにした。

 数日前まで朝は涼しかったが、今日は8時の時点でかなり暑い。

 全部水を飲み切ってしまったので、コンビニで調達して河原に戻ると、この前会った高城先輩のお父さんと再婚する……遠藤さんに会った。


「あら、貴方……永野さんと居た」

「そうです、和泉といいます」


 遠藤さんもジョギングをしているようで、少し一緒に走ります? という雰囲気になり、一緒に走り始めた。

 

「勇樹くんって、学校ではどんな子?」

 遠藤さんは楽しそうに話しかけてきた。

 俺は人のことをペラペラ話すのが好きではないので

「優しくて真面目な先輩です」

 とだけ答えた。遠藤さんは

「あはは、そうだよね、本当に真面目。体操教室も一回も休んでないのよ。怪我も減ってきたみたいで良かった」

 と爽やかに笑った。

 それは遠藤さんに会えるチャンスを逃したくなかったからでは……?

 まあご愁傷様すぎるので、黙っておく。遠藤さんは続ける。

「聖空は底抜けに明るくて良い子でしょ! 毎日 瑠香るかとオリジナルダンス見せてくれたのよ」

「へえ……」

 正直全く想像できないが、それを伝えても心配事を増やさせるだけの気がして黙る。

「小学校一年生くらいから来てたかな。もう最初っから可愛かったのよ、聖空は。天使みたいに美人さんでね」

「それはなんとなくわかります」

 現時点であの美しさなんだから、小学校の時なんてもっと可愛いだろうな。

「瑠香は天才、聖空は努力の子だった。ずっと瑠香に勝ちたいって頑張ってて、瑠香も聖空が居るからって頑張ってて……だから連絡取ってないなんて意外。でもあの事務所も大変そうだから……色々あるんでしょうね」

 俺はバイトの前にシャワーを浴びたいので、ここで止めることにしたが、遠藤さんは「今度体操教室きてよー!」と走って行った。


 家に帰って改めて永野さんと瑠香さんを調べてみた。

 すると沢山の写真と記事が出てきた。

 まだ小学生の頃だろうか、一緒にオモチャのCMに出ている永野さんと瑠香さん。

 子ども向けの雑誌で一緒に遊んでいる弾けるような笑顔。

 新しい記事になるにつれ、二人の表情は暗くなっていく。

 多角経営に失敗した会社の利益のために、二人はグループのツートップとして常に争わされていた。

 やがて瑠香さんが怪しい男と付き合っているという噂。

 そして永野さんの引退直後の全く表情がない写真。

 俺はスマホを机に置いた。



「おはようございます」

 永野さんが喫茶店に来た。

「おはようー、今日もよろしくねー!」

 兄貴はおたまをフリフリして挨拶する。

「おはよう」

 俺が掃除機をかけながら挨拶すると、

「おはよう、和泉くん」

 って永野さんはふわりと緩んで答えてくれた。


 永野さんはすぐにエプロンをつけてお店の清掃に入る。

 最初は戸惑ってたけど、一週間もすると完全に慣れて率先して仕事をしているので安心して見て居られる。


「じゃじゃーん、新作です。鶏レバームースとオレンジのジャム……どうですか?」

 兄貴は新作をライ麦パンに乗せて永野さんの前に置いた。

 永野さんが「いいんですか?」と俺と兄貴を見るので「うんうん」と頷いた。

 この店のメインターゲットは俺たち男ではなく、若い女性なので永野さんが味見として適任だ。

 永野さんはパクリと食べて

「……ふわふわで全然レバー感がなくて、それなのに深くて……うっすらするオレンジの匂いがすごいです。おいしい」

「良い感じ? 今日から出そうかなー」

「いいと思います」

 永野さんはごちそうさまでしたと頭を下げた。


 窓を拭いていた俺に永野さんがスススと近づいてきて小さな声で言う。

「実はレバーって苦手だったんだけど、美味しかった」

「苦手な食材は断ったほうがいいよ。俺はカリフラワーは絶対食べない」

「美味しいのに。じゃあカリフラワーは私が食べるね?」

 そういって永野さんは目を細めてほほ笑んだ。


 ああ、可愛いなあと思う。


 調べたら色々出てくるのは分かってるけど、俺は今この瞬間目の前にいる永野さんだけで良いと思う。

 何か知りたいなら、永野さんに聞くべきだし、俺だったらそうして欲しいと思う。

 今、目の前にいる永野さんだけを見ていたい。





「あのこれさ、前に話してたやつ。余ってる席を貰ったから」


 休憩時間、俺はエプロンから野球のチケットを取りだした。

 それは駅前にある企業の社長から頂いたものだ。

 社長は野球が大好きで、草野球のチームを持っていて、タヌキ監督と仲良しなのだ。

 そして甘スタに年間シートを持っているけど、忙しくて行けないことを俺は知っていた。

 ダメ元で頼んでみたら「いいよいいよ~」とくれた。

 盛り上がるという意味では外野のほうがいいが、野球にあまり詳しく無いなら内野のほうが良いだろうと判断した。


「本当にいいの? お金払うね」

「いや、貰ったんだ」

「じゃあえっと……山盛りポテト奢るね」

「焼きそばも?」

「そうね。服は何を着て行けばいいの? ユニフォーム?」

「いやいや、そこまでガチじゃなくていいよ。それに何か買うなら一緒に球場で買おう」

「うん!」


 そう言って永野さんはチケットを持って、それを大切そうに抱きしめた。

 ただそこのコンビニで出してきただけの紙なんだけど、それは大切そうに眺めて

「ここに書いてあるのが席? 甘スタって調べたら席が分かるの?」

 とすぐに調べ始めた。

 俺も全く知らなかったんだけど、甘スタのサイトで席をみると、その席から球場がどう見えるか写真がUPしてあるのだ。

 しかもそれはグリグリと動かせる。二人でスマホの画面を見ながら感動してしまった。

 こういう風に説明してあれば、席を買う時の参考になるし、イメージもつかみやすい。

「いいアイデアだね」

 と永野さんを見たら、顔がものすごく近くにあったので身体を反対側に倒して逃げた。

 永野さんはクスリと微笑んで

「……そんなに驚くほど変な顔でしたか?」

 と言うので

「いやいや……いやいや……」

 と俺は首を振った。

 永野さんは机をポンポンと叩いて、近くに戻るよう促して

「どこの入り口から入るの? ていうか最寄り駅が多すぎない? どこから行くの?」

 と更に俺に説明を求めた。

 信頼してもらえるのは嬉しいけど、最近距離が近くてさすがに落ち着かない。

 俺は火照る顔を冷ますように水を飲んだ。




 蒸し暑いけど、よく晴れた週末の土曜日の夕方。

 永野さんと俺は初めて駅で待ち合わせして野球を見に行くことにした。

 今まで環状線で一緒に帰ってきてたけど、待ち合わせして一緒に出掛けるのは初めてだ。

 気合入れすぎても動きにくいし、俺だけ観戦グッズを身に着けていても変なので、普通の服装にした。

 

「お待たせしました」

「おう」


 実のところ、かなり離れた所からこっちに来るのは気が付いていた。

 通りすぎる人たちがみんな永野さんをチラチラみていたからだ。

 スタイルが良すぎて目立つのだ。

 それに、ふわふわしたフレアスカートに野球帽が、可愛すぎる……。


「どう? 観戦スタイルとして変じゃない? 床におけるリュックにしたの」

 そう言ってクルリと後ろをむいた。

 野球帽の穴から出してあるポニーテールが軽く跳ねた。

「完璧」

 俺が言うと永野さんはふわりとほほ笑んで

「行きましょう」

 と俺の腕を冷たい両手で包んで、引っ張った。

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