第17話 夏の夜に

「おつかれさまでしたあああ……」

 兄貴はビールをゴボボボボボと音を立てて一気飲んでプハァァァァと息を吐いた。

 朝8時から始まった夏祭りは夜9時に全て作業が終了した。

 ここまで忙しいのは夏祭りだけなので、やり切る意味もある。


「ぐえええええ……もう疲れた。お風呂入って寝る、無理、おつかれ!! 遊馬いくよーー!」

「はぁい」

 兄嫁さんはお祭りが大好きなので、夏祭りだけは毎年必ず来る。

 息子の遊馬くんは俺によじよじのぼって遊んでいたが、さすがに疲れたみたいで兄嫁さんのほうに歩いて行った。

 永野さんは、遊馬くんが俺の肩から落ちるんじゃないかとハラハラしながら見守っていた。

 遊馬くんは小学校一年生で、身体も小さめなので、ちょこちょこ動いて可愛い。


 兄嫁さんがトコトコと永野さんのほうに来て顔をマジマジとみた。

「……この暑さでベースが全然崩れてない。さすがプロね」

「お化粧、好きなんです」

 永野さんは「でもやっぱり崩れてますよ」と少し恥ずかしそうにうつむいた。

 兄嫁さんは「いやいやいや……」とジーッと観察して

「このラメと艶……エレモントのジュレファンデーション……?」

「32番です」

「よっしゃ!!!」


 見ただけで使った化粧品が分かるのか?!

 そして永野さんも嬉しそうに答えている。

 なんだこのハイレベルな戦いは。


「アイシャドウは、NARPのchameleon Glow!!」

「シュウタカムラのプレスドアイシャドーのグリーンアンバーです」

「あ~~そっちか~~~!!」


 二人はTHREFの秋コレ見た? とか、エレモントのクリームは夏に使うと皮膚呼吸が死ぬなど、俺には到底理解ができない化粧品トークを炸裂させはじめた。

 俺の膝の上に戻ってきた遊馬くんが7割眠っている。


「あーダメダメ、コスメトークになると元気になっちゃう。帰ろ帰ろ! 永野さんまた話そうー!」

「はい」


 永野さんは赤いメガネを外して眠そうな遊馬くんに手を振った。

 そして俺のほうを見て言った。


「久しぶりにコスメトークできて、興奮しちゃった」

「兄嫁さんは美容師さんで雑誌のメイクとかもしてるから、詳しいんだよ」

「そうなんだ。デパコスは高いから……あ、デパコスってね……」

「デパートで売ってるコスメだろ。兄嫁さんがいつも兄貴にねだってる」

 俺がそう言うと兄貴は帰り支度をしながら

「きれいな奥様のために投資は欠かさないのです」

 とほほ笑んだ。

 さすが兄貴。なぜならドアの向こうで遊馬くんを抱っこした兄嫁さんが待っていると気が付いている。

 俺たちは喫茶店を出た。



 外に出たら雨が降り始めていた。

 予報になかったので、喫茶店に置いてあった傘を貸すことにした。

 バラララ……と激しく雨が傘を鳴らす。

 少し前を行く永野さんは大きめの水たまりを避けながらゆっくり歩く。

 商店街を抜けたところまでは送ろうと思った。

 永野さんは半歩だけ下がって俺の右側に来た。

 傘を後ろに揺らして、顔を上げる。


「すごく楽しかった。ありがとう」

「こちらこそ助かりました。本当に」


 最初は慣れなくて大変そうだったけど、2.3個剥き終わるころには慣れてくれた。

 ビクビクしていた包丁で芯を取る作業も最後にはテキパキこなせるようになっていた。

 去年は朝8時から21時までひたすら作業してたけど、今年は広場を周る余裕もあった。


 公園の入り口まできたので、俺は立ち止った。

 あまり家の近くまで行かないほうが良い気がする。


「じゃあ、また明後日」


 明日はみんな疲れ果てているので、店は休みだ。

 そう言って踵を返そうとしたら、永野さんが俺のTシャツの袖を引っ張った。


「……気持ちがいい雨だし、もうちょっと一緒に歩かない?」

 

 永野さんは俺から目をそらして伏し目がちに言った。

 俺は安心した。ここまで送ったことさえ嫌がられるのでは……と少し思っていたからだ。

 

「いや、あんまり家の近くに来てほしくないかなと思って」

「だってもう家の場所、知ってるじゃない」


 そう言って永野さんはもう一度俺の袖をクッ……と引っ張った。

 その小さな手が雨で濡れていた。

 俺はそれが気になって、傘で永野さんの手を守り


「送っていいなら、夜ひとりで歩かせるのは怖いから、毎日送りたいんだけど」


 と言った。

 湿った風がふわりと抜けて永野さんの髪の毛を揺らす。

 永野さんは傘で顔を少し隠しながら


「……じゃあ毎日。約束ね」


 と言って前を歩き始めた。

 この公園は夜もわりと人がいるし、ランナーもいるけど、もちろん変質者が出た話もある。

 だから一人で帰って大丈夫なのかな……とひそかに思っていたんだ。

 だから送れるなら安心だ。

 

 雨の日の公園は好きだ。

 雫が無限に広がる池は、どれだけ見てても飽きない。

 湧き水が出ている公園で、最近 りをしたので、池がとてもきれいになった。


「前に掻い掘りをした時に聞いたんだけど」

「? なあに、それ」


 俺はこの前した作業を説明した。

 まず全部池の魚を全部逃がして、水を抜いて、ゴミを掃除する。そして池の泥を捨てる。

 そして日干しして乾かすんだ。そして水を戻すとキレイになる。


「近くに住んでるのに、全然知らなかった」

「朝イチでやったからね。公園に人が居ない時に」

「あ、でもお水がない時はあった」

「そうそう。全部無くす。その時にさ、泥を退けた小さな穴みたいな所から、ポコッ……と水が出てくるんだよ。それは遠い遠い山の向こうで降った雨が50年くらいかけて、じわ~~~っと染み出してるんだって。池の真ん中から出てくる水はそうなんだって。ずっとずっと地下に居て、50年ぶりにポワ……って」


 俺はこういう話に弱くて思わず熱く語ってしまった。

 恐竜とか進化とか好きで、たまに兄貴をドン引きさせてしまうんだけど。

 永野さんは水面をじっとみて


「じゃあそこの湧き水と、50年ぶりの雨と、今降ってる雨が、混ざってる水なのね。すてき」


 と言ってくれた。

 そうなんだよ……と俺は嬉しくてニヤニヤしてしまった。 

 下らない話を真剣に聞いてもらえることが、こんなに嬉しいなんて。


「私もしてみたいな」

「掻い掘り? 5年に一度とか……もっとかな? かなり大規模だから」

「今度あったら、呼んでね。見てみたい、50年ぶりに出てきたお水」

「おう。でも泥が臭いんだよ……本当に……」

「あ、でもそれはそんな感じする……」

 

 俺たちはゆっくり橋を渡ってマンションの入り口が見えてきた。

 入り口にもう警備員さんが立っていて、お城と呼ばれるのも分かる気がする。

 ここから更に入らないと家に入れないんだろうけど、マンションの敷地なら安心だ。


「また明後日」

「うん、またね」


 永野さんはトト……と歩いてマンションの敷地内に入って行った。

 そして数分後、スマホが鳴ったので見たら『ただいま』とLINEが入っていた。

 俺はなんとなくマンションを振り向いて見た。

 傘からボタタ……と雨が落ちる。

 今日はたくさん疲れたと思うから、少しでも眠れると良い。

 そう思いながら『おかえり、おやすみ』と返信をした。

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