第3話 永野さんの秘密

 どうしたものか。

 俺は体を石のようにして、身動きひとつすることができない。

 降りる駅はとっくにすぎてる。それこそ、もう聞いたことがない駅名まできている。

 起こすべきか……俺はチラリと右肩を見た。

 そこには俺のジャージを顔にかけて、完全に熟睡している永野さんがいた。



 偶然電車で会ったのは30分くらい前。

 俺が元々座っていた席の隣に永野さんが座った。

 同時に花のような香りが漂い、細い肩が腕に触れて、俺は緊張して何も話すことができず、スマホをいじっていた。

 すると数分後……俺の右側にズル……と乗ってくる重さ……永野さんが完全に眠っていた。

 手に持っていたカバンが落ちそうになったので、俺は慌てて持った。

 すると身体が反対側……知らない人の方に行きそうだったので、頭に触れて支えて……数秒考えて……俺のほうに引き寄せた。

 知らない人に寄りかかるより良いだろうと勝手に判断したけど、怒られたら謝ろう。

 指先に初めて触れた永野さんの髪の毛は、今まで触れたどんなものより柔らかくて儚かった。



 最寄り駅が近づき、起きるかな……と覗き込んだが、完全に眠っている。

 まあ数駅くらい良いか……と俺は起きるのを待つことにした。

 美少女が真横にいる状態はうれしいし、それほど悪い時間ではない。


 5分……10分と待って20分経過したころに、目の前に座っていた女子高生二人が口元を隠して「ねえ」みたいな会話をした。

 電車で眠る姿を写真に撮られたら大変だと思い、最初は制服の上着をかけようと思った。

 でも永野さんを引き寄せているので、動けない。

 ハンカチなんて高貴なものを持ち歩く男子高校生がいるだろうか、いやいない、それは都市伝説だ。

 持っているとしたら、それは一週間以上前に母さんにネジこまれたもので、少なくとも永野さんの顔にかけられるものではない。

 駅前で貰ったティッシュを顔にかけることも考えたが、状態的に縁起が悪いし、逆に目立つだろう。

 永野さんの顔を隠せるようなものが何もなくて、仕方なく俺は二日ほど着たジャージを永野さんの顔にかけた。

 どうしようもなく変だし、臭かったら申し訳ない……でも写真を撮られるより良い気がするから、怒られたらこれまた謝るしかない。


 ジャージを乗せると、永野さんはもう身動きひとつせずに完全熟睡体制に入った。

 それこそ全く動かないので心配になって呼吸を確かめるほどに深く眠っている。


 ……諦めた。


 俺はなんとか動く左手で終点を確認する。

 なるほど餃子の名所か~~、もう食べて帰ろうかな~~。

 バイトは「ちょっと無理」と兄貴に連絡した。ここまで完全に熟睡している人を叩き起こすのは悪い気がした。

 それから数十分……ついに電車は餃子の名所に到着した。しかし永野さんは起きない。

 そして折り返し学校がある方面に動き出すとアナウンスがあった。

 やったー、そのまま1時間乗ってれば家に帰れるのか~。俺は完全に開き直っていた。


 それに……俺の横で完全に眠っている永野さんを見るのは、少しだけ楽しかった。


 艶々とした髪の毛には、まあるい光の輪が見える。

 天使の輪とか、昔聞いたことがあるけど、これがそうだと思う。

 腕に触れている頬は柔らかく、肩は俺の半分くらいしかないほど薄い。これでは球が投げられない……投げなくていい。

 脇腹にふれている腕は恐ろしく細く、でも奥の方にしっかりと筋肉を感じた。

 これは運動をしている人の体つきだと思う。

 閉じらえている目……まつ毛が本当に長く、肌は新品の陶器のように滑らかで美しい。

 まあその美しい顔が俺のジャージの下にあるんだけど。


 ぼんやり横を見ていたら、俺が抱えている永野さんのカバンが振動を始めた。

 たぶん中でスマホが揺れている……通知? 少し待っていれば終わるだろ……と思ったが、何度も何度も、ずっと揺れ続ける。

 これは電話だ。何か緊急事態が起きたのかもしれない。俺はカバンを永野さんのお腹の上に置いた。

 これでブルブルとお腹が揺れて起きるに違いない。

 そう思って15分、起きない。

 緊急事態だったら、大変だ。俺は仕方なく、顔の前にかけたジャージを退けて、永野さんを揺らして起こした。

 熟睡してるわりにはスッ……と目覚めた。


「……え、あれ……え……?」


 永野さんは完全にわけがわからないといった表情をしている。

 俺はジャージをカバンに入れながら


「寝てたんだよ。カバンの中でめっちゃスマホ鳴ってるから出たほうが良い。緊急事態かも」

「寝てた……? 私、寝てたの?」

「寝てたよ、見なよ。今この電車、学校方面に向かってるだろ。終点まで行ったんだ。もういいから、ほら、鳴ってる」

 

 俺は真面目なので鳴ってる電話に反応しないとか、性分的に許せないタイプだ。

 相手は用事があって連絡してきているのだから、即対応するべきだ。

 それなのに永野さんは生まれたての雛のようにぽんやりしている。


「寝てた……?」

「電話鳴ってる」


 俺がすこし強めに言うと、永野さんはやっとカバンを開けてスマホを取り出し、電話に出た。

 そしてぼんやりと遠くを見たまま言った。


「マネージャー……ごめん、私、電車で寝てたの」

『寝てた?! え? 本当に?! え?!』

 

 俺の耳のすぐ真横なので声が聞こえてしまう。

 電話先の人が大きな声を出しているのは分かるので、やはり緊急事態だったのかと思った。

 起こして正解だったようで安心した。

 俺たちはなんと1時間半ぶりに最寄り駅に降りた。

 あまり長く座ることに慣れてないので、お尻がじんわりと痺れている。

 俺は「じゃあ」と軽く挨拶して改札に向かった。

 永野さんは「ありがとう」と俺に向かって言った。

 個人的には時間こそ長かったけど、永野さんを特等席で見学できたのは悪くない時間だった。


「あの」


 後ろから永野さんに呼び止められる。

 呼び止めたのに、口を一文字にしたまま、何も言わない。

 ……なんだろう?

 通行人が邪魔そうに俺たちを見るので、永野さんを促してベンチに座った。

 この前子どもに靴を履かせたところだ。

 横に座った永野さんは黙ったまま何もいわないが、わざわざ呼び止めたということは何か言いたいのだろう。

 バイトも断ってしまったし、別に用事はないので静かに待つことにした。

 たっぷり数分待って、永野さんは俺の方を見て言った。


「あのね、もう一度、一緒に電車に乗ってくれないかな」

「……ええ? どこかにいくの? 別にいいけど……」


 予想外の言葉に驚いた。

 正直さっき1時間半くらい電車に乗っていたので、お尻が痛い。

 すこし身体を動かしたいのが本音だった。

 長く座ることがそれほど得意ではない。

 俺が戸惑っているのを感じ取ったのか、永野さんは提案を取り下げた。


「ごめん、何言ってるんだろ。変なこと言ってるって分かってる」

 永野さんはスッ……と立ち上がったが、立ち眩みか何かで座り込んだ。

「おい、ちょっと大丈夫か」

 俺は背中に手を添えて、座らせた。

 永野さんの口の間から言葉がコロリと落ちるように出てきた。


「ドン引きしないでほしいんだけど。寝れないの、全然。ここ二年間くらい、結構強い薬飲んでるんだけど」


 永野さんは美しく整えらえた指先の爪をいじりながら話し始めた。

 昔から眠るのが下手だったけど、ここ二年は病的で、夜がくるのが怖くなるレベルなこと。

 病院に通って原因も調べたけど「精神的なもの」と言われただけ。

 薬は何種類もかえて、今はかなり強い物で無理矢理寝ているのだと語った。


「電車とか、外で眠れたことなんて無かったから、ひょっとして和泉くんが横にいたからかも、って思ったんだけど……」

 永野さんは花が枯れて行くようにシオリと首を落として続けた。

「でもね、言いながら思ったんだけど……もしまた和泉くんが横にいて眠れたら負担になるし、眠れなくても『こんなこと』伝えちゃったから、負担よね。ごめん、もう忘れてほしい。久しぶりに眠れていい気分だから話しちゃった」

 そう言ってヨイショと立ち上がった。


 永野さんは今とても大事な、大切な話を俺にしてくれてたのに、俺が思ってたことといえば『和泉って苗字覚えててくれたんだ!』だった。

 君とか、ん、とかしか呼ばれて無かったのに、和泉くんが横にいたから……和泉くん……和泉くん……。

 突然の出世がとても嬉しかった。


 それに一時間半は長すぎたけど、俺はこの時間全くイヤじゃなかった。

 むしろ……起きなければいいのにって思ってた。

 揺れ続ける電話さえなかったら、別に何往復しても良かった。

 そう思えるほど永野さんは気持ち良さそうに眠っていた。

 俺も立ち上がりながら言った。


「じゃあ、明日試してみるとか……? 中央本線だと15分だけど環状線で帰れば40分くらいかかるし、同じ学校の奴らは誰もいないと思う。それくらいなら俺も負担じゃないし、眠れるならラッキーじゃないか。眠れなかったらやめればいい。一回試すだけ」


 俺も甲子園をもう目指せないと知った時二か月くらい眠れなかった。

 眠れないと両親にも誰にも言えず、こっそり薬局で眠れるという薬を買ってみたが、ただ頭がぼんやりするだけで眠くならなかった。

 あれが二年続いて、あげく強い薬なんて、正直辛すぎる。


 目の前に立っていた永野さんの頬の力がぬけて、眉が下がった。

 あ、素顔だ、と俺は思った。


「……すいませんが、よろしくお願いします」


 そういって頭をさげると、髪の毛にふわりと天使の輪が見えた。

 同時に思い出した。


「あのさ、もし眠れた時にかぶせるから、深めの帽子持ってきてくれよ」

「あ、うん、わかった、覚えておくね」


 永野さんは嬉しそうにスマホを取り出してスケジュールに『帽子』とメモをした。

 今日は何も無かったから、俺の臭いジャージをかぶせたなんて絶対言えない。


 俺と永野さんは、学校を出て二時間後、やっと最寄りの改札から出た。


 連絡先の交換……と、お互いにたぶん、一瞬思ったんだ。

 スマホを俺も永野さんも持って。

 でもまだ違うと思った。そこまで永野さんは俺を信用してないし、俺も情報がバレた時に疑われない自信がない。


『明日学校が終わったら、中央本線じゃなくて環状線の、一番前の自販機のところで待ち合わせ』


 だから小学生みたいな待ち合わせを決めた。

 明日が楽しみだ。

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