第二話 見えない姿


 先週のニュースでは確かに梅雨入りが発表されたはずなのだが、ここ数日は雨雲の片鱗すら見えない快晴が続いている。職員室の中にも、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくっている姿がちらほらと見受けられた。


 すでにクーラーは稼働期間に入っているのだが、先日行われた校舎の拡張工事の影響で一部の──というかここだけ──クーラーがイカれたままだ。いま原因を調べているらしい。


 そのため職員室は簡易サウナと化している。生徒の教室のほうがクーラーで涼しいが、休み時間になったら即追い出されるのが教師の宿命。理科準備室に引きこもってられる科学教師が羨ましい。特別教室に席がない非常勤教師には、職員室の他に行き場がなかった。


「おお、春高はるたか先生。調子はどうですかな」


「ふぉっ、き、教頭先生。いやあ、この通りですよ」


 デスクに向かい心を殺してひたすら小テストの採点をしていたら、突然真後ろから声をかけられた。完全に油断していて変な声が出てしまう。


 せめて横から声をかけろよ。視界に入れ。最近は目の中のゴミですら視野についてきて自己主張すんだぞ。いやこれただの飛蚊ひぶん症だわ。


 心の中で散々文句を言いながら笑みを作る。引きつってるだろうけど仕方ない。三十歳にもなると顔面の筋肉は愛想笑いにも追いつけないほど衰えゆくのだ。


 教頭は俺の右側にひょっと顔を出し、ははぁっと感心するみたいな吐息をつく。動きが爬虫類っぽい。


「採点ですか。熱心ですなぁ。……ところで春高はるたか先生、山尾先生はやはり今日も……?」


「ええ、俺――っ僕も見てませんね」


 教頭の目線につられて左隣を見る。


 机の上には元から置かれていた教科書や辞典に加え、生徒たちが持ってきたプリントの束が、乱雑に乗せられていた。


 この机の主、山尾やまお教諭がこの席に座っている所を、俺はもうずいぶんと見ていない気がしていた。俺が彼を最後に見たのは先週だ。


 山尾教諭は、薄暗い空気を放つ社会科の教師だった。背が高いわりに猫背で、顔のパーツが不自然に中央に寄っているのがどこか間抜けである。生徒から冗談混じりにクスリでもやってるんじゃないかと言われるくらいには陰気だ。


 なので生徒からの評判は悪いが、教え方が上手いので一部擁護ようご派の生徒がいた。そのため担当のクラスからも排斥はいせきされるほどではない、という不思議な男だった。


 しかしその山尾教諭も、先週末の出勤を最後に無断欠勤が続いていた。ここ最近は以前にも増して陰気な顔をしていたから、一部の教職員からは『ついに』と揶揄やゆされていたりする。


「電話しても出ませんでねぇ。来週もこんな感じですと、生徒のためにも授業計画に手をいれなきゃならんくなるでしょう? それで春高はるたか先生、山尾先生のお宅はご存知ですかな?」


「ええ、飲み会で一度送っていったことがありますので」


 嫌な予感がしながらも俺は正直に答えた。俺は山尾のアパートを知っている。着任祝いの飲み会の後、酔いつぶれた山尾を、唯一方向が同じ俺が自宅まで送り届けたのだ。


「山尾先生は独身ですし、あんまり大事にしたくもないですから。春高はるたか先生ちょいと見てきてくれませんかね」


「はぁ」


 続きの説明を求める相槌あいづちを教頭は首肯と捉えたらしい。久々に水に浸かったイモリみたいな満面の笑みで、満足げに職員室を出て行ってしまった。


 しまった。断る隙を逃したか。


「くっそ、だるクソめんどい……」


 口の中だけで文句を言いながら、俺は手元のプリントにペケをつけた。


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