第十七話 過去語り
「母さんは男に騙されて四十で俺を産んでな。それからは一人で俺を育ててくれた。感謝してるんだ。だから、あの人が俺を忘れてても毎週顔を出すようにしている」
訪問客も休めるラウンジのソファーに座って、俺は対面でコーヒーを飲む柳楽にそう語った。母さんが俺のことを思い出せないので、代わりに俺が幼少期のことを聴かせることになったのだ。
「失礼だが、ここの支払いはどうやって?」
辺りを見渡した柳楽が、言葉を選びながら声をひそめる。もとより老人ホームの利用料というのは安くはない。これだけデカくて掃除の行き届いてるような環境ならなおさら。
ラウンジにはコーヒーマシンまで備え付けてあるほどだ。今も男性スタッフがマシンを清掃している。鍵を失くしたらしくあたふたしている彼の元に、すぐ別の女性スタッフが飛んできた。こうしてスタッフが多く、顧客の対応にもゆとりがある。言ってしまえば富裕層向けの施設だった。
それをたかが高校の非常勤講師の給料でどうやってやりくりしているのか、不思議なのだろう。
他人に金の話をするのは厳禁だが、柳楽なら大丈夫だろうと判断する。
「母さんの貯金だ。母さんは俺を産んでからデザイン事務所を立ち上げて、それが結構うまくいったらしくって、ここで天寿を全うできるくらいの資産はある。俺も小さい頃はよく取引先に連れていかれたよ」
そしてそこでもドジを踏んで、母さんに苦笑いをさせてしまった。今では思い出として語れるが、当時は迷惑をかけたと自責で自分を追い込むこともあったか。
注いできたコーヒーが苦かったので、据え置きされていたシュガーポットの砂糖を多めに入れる。手が滑って予想以上に入れてしまったそれを溶かして飲んで、俺は予想外の味に目頭を押さえた。
その態度を
女性スタッフがポケットから鍵を発見するのを視界の隅に納めながら続ける。
「俺はこんな体質だから、怪我も多かったし物もよく壊した。でも母さんは一度もそれを叱らずに、『気にしなくていい』『大丈夫』って、笑って頭を撫でてくれる人だった」
それにどれだけ救われたか分からない。
「俺の傍にいると何が起きるか分からないし、ずっとついて介護してやれるわけでもない。施設で余生を過ごしたほうが、きっと良い」
残してしまうのも勿体ないので、俺はいっきに塩入りコーヒーを飲み干した。うん、少量ならいいが、たくさん入れたら駄目だな塩は。
俺の奇行を止めもせず、柳楽は物憂げに窓の外に広がる中庭を眺めている。母さんと会ってから口数が少ないように感じるがどうしたのだろうか。何やら考え込んでいるようだが。
「まあ、話せるのはこのくらいだな。俺の用事は終わりだ。他に行くところはあるか? 何か気にしてる様子だが」
「? ああ、そうだな。そうだった。いや違う。その前に、これを見てくれ」
「なんだ? 神社のお札じゃないか」
心ここにあらずといった調子の柳楽が我に返って差し出してきたのは、俺のよく知るお札だった。山尾先生の家でも、喜多霧を呪ってた女の家でも見たやつだ。やっぱり流行っているのだろうか。
「見覚えがあるのかい?」
「母さんが毎年お参りに行って買ってきてたお札だ」
「……貴君はこの町の出身だったか?」
「ああ、地元だ。大学入ってから
「この札を作っているのは、丁度そこの山道をさらに進んだ所にある杉岡神社だ。地元の神を祀っていて、ほとんど参拝客もおらず知る者も少ない。しかし昔から妙な噂があるようでね。――――曰く、願いを叶えてくれると」
「願いを……?」
それは知らなかった。俺は一度も行ったことがないから、ただお札に刻印された字面だけを知っていたくらいだ。
「昭和期に一部でまことしやかに囁かれていたらしいが、最近は歪んだ形で話を聞くようになった。ここ最近この町はおかしいんだ。私の作ったホームページには、本当に
「喜多霧みたいに不思議な現象に悩まされてやつがそんなに居るのか……」
「私の仕事はあくまで情報屋。実際に出向いて事件を解決するようなものじゃない。喜多霧さんのように自力で動けない場合は解決までああやって私が表立って動くこともあるが、そういうのは
「ふぅん。じゃあ、今日はついでに杉岡神社に偵察にでも行くか?」
「そうだ。今のところ春高先生の件も手がかりがないし、同じ地元の問題だ、何か関係があるかもしれないと思ってね。それに、気になることもできた」
「気になること?」
引っかかる言い方に問い返す。すると柳楽はコーヒーの入っていた紙カップを握りつぶしながら立ち上がった。
「この札から感じる流れは偏っている。込められた気が不運に寄りすぎている……とでも言うのかな。誰かが意図して不運を込めたかのような違和感がある。
この気配はどこか貴君を取り巻くものに似ている。その体質と関係があるかもしれない」
「俺と? どういうことだ」
「すまない、まだ調査が足りていなくてね。確証が持てたら貴君にも話す。車を出してもらっていることには、本当に感謝しているんだ。私は車を持っていないからな」
その口ぶりで、そろそろ出発、ということだとすぐに分かった。
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