第五話 取引以前


 柳楽なぎら紗希さきがこんな生徒とは思わなかった。


 ニヤニヤと俺を見つめたまま近づいてくる彼女に追いやられた俺はフェンスに身体を押し付け、結果逃げ道を失っていた。


「お、俺は…………」


 駄目だ。距離があまりに近い。自分の吐息が彼女に当たってしまいそうで言葉を発するのが躊躇ためらわれる。少し動けばどこかが触れてしまいそうだ。


 それどころか、爛々らんらんと輝く黒水晶みたいな瞳から視線をずらせば、彼女の前髪の生え際まで見えてしまうほどだった。鼻で息を吸うと淡い石鹸に似た良い匂いが漂ってきて、呼吸すらままならない。このままじっとしていれば彼女の体温すら感じれそうなほど。


「――で――――なん」

「はは――――って」


「っ!」


 屋上特有の突然吹く風が女子生徒の声をどこからか運んでくる。それで我に還った。


 ヤバイ。この位置だと校舎から丸見えだ。俺のことだからお喋りな生徒に目撃されて誤解されそのまま辞職に追い込まれる可能性がある。


「すまん、少し離れてくれないか。この距離はいろいろ差し障りがある」


 少女を直視しないようあらぬ方向を見ながらなんとか言うと、柳楽なぎらはようやく自分の状態に気づいたようで離れてくれた。後ろに二歩ほど下がりながら、柳楽は申し訳なさそうに眼を伏せる。


「ああ、失礼した。劣情れつじょうを誘ってしまったかな」


「んなもんもよおしてねえ!」


 だから未成年に手は出さねえって言ってんだろ! 


「そうなんですか? 私はてっきり……。これは重ねて失礼。貴君は教師、張るべき体面というものがあったね」


「言い訳でもねえよっ」


 ニヤけた顔のまま丁寧なお辞儀で謝辞を述べる柳楽なぎらに言い返す。なんかこの数秒でいっきに疲れたぞ。コイツこんなキャラだったか? 教師と話す時どころか、クラスメイトと会話してるときですらもう少しつつしみがあったはずだが。


「はっ、そうか。柳楽なぎらお前、『お手洗いだなんて嫌ですわ先生、わたくしお花摘みに参りますのよ』とか言いそうな顔しやがって、そっちが本性か!」


「うん、意味が分からないが、貴君から私への印象がはなはだ時代錯誤ということは分かった。あと似てませんよ」


 似てたら怖いだろ。ではなく、コイツ猫被ってやがったのか。煙を吸わせないようタバコを灰皿に落として、欺かれたような気分のまま柳楽をじっと見る。彼女はやれやれと大きく肩をすくめた。


「そりゃあ誰しも学校生活では、多少は自分をいつわるものだろう。私のそれは人より少し過剰だというだけだよ。学校の人間関係などにわずらわされたくないものでね。神秘的で近寄りがたい空気を演じていれば、放課後の誘いをかけてくる不躾ぶしつけな者もいない」


「ならどうして俺に対してその本性を見せる。ここは校内、しかも俺はお前の現国を受け持つ教師だぞ」


 そこがせない。俺は学校関係者。彼女の言う煩わしい物の一つだ。なのにどうして。


 すると柳楽なぎらはセーラー服のスカートを翻して、屋上の奥へと歩いて行く。つられて俺も奥へ移動してから、それが人目を気にする俺への気遣いだったと気づいた。


 少女は入り口付近に陣取り、いまだ煌々こうこうと照りつける日光を避けて口を開く。


「言ったでしょう。私が演技していたのは学校のことに縛られないため。仕事に集中するためだ。けれど今は違う。貴君は依頼者なのでしょう? 私は依頼者に対して己を偽ることはしない。だからこれで合っている。では改めて貴君の依頼内容を聴こうじゃないか。どんなことでも力になるとお約束しますよ」


「俺は……」


 言葉を探して口をつぐむ。依頼と言われて頭に浮かぶものが無いわけじゃない。しかしそれをコイツに言っていいのかわからなかった。

 俺が柳楽を呼んだのは故意じゃない。火を噴いたアレが本物だとは思わなかった。


 そして今も、俺は柳楽を信用していない。


 だって奇跡なんて、この世に存在しないって身を持って知っているから。


 奇跡や偶然は俺に微笑まない。何時いつだって地に足ついた現実的な思考と、積み上げた実力だけが頼りだ。それすら不運という偶然に崩される。


 奇跡とは、俺以外の誰かに起こり、俺を不幸に追い込むものに他ならない。


 沈黙を貫く俺に柳楽は寂し気に微笑む。


「なるほど、言えないか。どうやら私の事を知ったのも偶然のようだね。私の仕事に懐疑的なのだろう。……ならばこうしようじゃないか。ついて来るといい。ちょうど帰り支度も終わっているようだしね。今から、他の依頼者に会いにいくんだ」


 気分を一新するように笑って、柳楽が俺の手を取る。


「どうせ今抱えている仕事を片付けなくては貴君の力にはなれない。だからその期間は時間の猶予だと思ってくれたまえ。依頼するかの判断はそれからでも遅くない。そして私が本物だと確信したあかつきには、貴君が胸に秘めるその知識欲、私に明かすといい」


 そうして俺は眩しい笑顔に促されるようにして、柳楽に先導されて屋上を後にするのだった。


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