第四話 禁断の果実


「はあ、そうですか。いやありがとうございます、春高はるたか先生。これは警察に連絡するほかないですね」


「はい、そうしたほうが良さそうです」


 首だけのお辞儀をして教頭の前から離れる。


 いつもと変わらない一日だった。山尾の部屋に居た時間がやけに遠く感じられる。

 目撃してしまった謎の発火現象も、一晩明けた今となっては幻覚だったのではないかと疑い始めていた。


 帰り支度を済ませ、周りに会釈えしゃくして職員室を出る。いつもは放課後まで仕事を残してしまうのだが、今日は早めに終わらせた。


『放課後 屋上へ』


 あの時浮かび上がった火のメッセージ。あれを信じているわけじゃない。そもそも一瞬だったのだから見間違えかもしれない。屋上というのも山尾のアパートの屋上を指しているのかもしれない。


 それでも俺は、鍵を片手に学校の屋上へと向かっていた。


 胸の中には、非日常への微かな高揚。裏切られ傷ついてしまわないように、思考では「ありえない」「奇跡なんか存在しない」と繰り返しながら、見慣れたステンレスのドアノブに鍵を差し込む。


 口の中に溜まった唾を飲み込み、手首をひねった。施錠が解除される手ごたえ。先客がいないことへの落胆と、変わりなく続く日常への安堵が入り混じった息が洩れる。まるでホラー映画を見た夜に物音がした方を振り返った時の心境だ。


 鍵をポケットに突っ込んで扉を押し開いた。フェンス近くに設置された屋外用の灰皿スタンド以外に遮蔽しゃへい物の無い、コンクリートののっぺりとした殺風景が広がっている。やはり、そこに人影はない。


 このまま引き返してもよかったが、それだとここまで来た意味がない。居もしない胡散臭い情報屋を求めて階段を上ってきたなど、そんな行動原理は誰への言い訳でもなく自分が納得できなかった。


 だから理由づけのために一服しようと屋上へ踏み出す。わざとらしく「タバコでも吸うか」などとうそぶきながら。


 フェンスに寄りかかってタバコを取り出し、ライターで火をつける。大きく吸って煙を肺に取り込み、空に向けて吐き出そうと――視線の先にいるはずのない人影があった。


「っ!? ぅげほっおほっ!」


 煙が気道に入って思い切りむせる。身体を折り畳み涙目になりながら咳き込んで、俺は再び顔を上げた。


 そこには、さっきと同じ光景がある。


 俺が入ってきた入り口のその頭上。置いてある貯水槽の横に、髪の長い少女が腰掛けて足を揺らしていたのだ。腰の上まである長い黒髪が風になびき、少女の顔を隠している。パタパタ動く足はすらりと長く、身長はそこまでないのにモデルのような印象を受ける。顔が小さく輪郭も恐ろしく整っているからだろう。


 よくホラー番組の回想で出てくる、場違いなほど美しい亡霊みたいな。


「ごほっ、幽霊!?」


「失礼ですね」


「喋った――――って、まさか四組の柳楽なぎらか?」


「ご名答」


 よく見ると人影は見覚えのある少女のものだった。俺の呼びかけにニコリと笑うのは、間違いなく三年四組の生徒、柳楽なぎら紗希さきだ。


「そんなところで何をしてるんだ」


 屋上は生徒の立ち入りが禁止されている。なので一応教師という立場上、注意するように問いかけた。すると柳楽なぎらは首を傾げて不思議そうに俺を指差す。


「何って、春高はるたか先生が呼んだんでしょうに」


「はぁ?」


 コイツは何を言ってるんだと眉をひそめ、俺は自分がここにやって来た目的を思い出した。


「まさか、お前が情報屋?」


 息を呑みそう尋ねると、柳楽なぎらは立ち上がって入り口から飛び降りた。結構な高さがあるのに何でもないようにふわりと降り立つ。着地の速さが不自然だったように見えたのは俺だけか? 風が柳楽を受け止めたようにも見えたのだが。


 いったい何が起きている。何の冗談だ。胡散臭い情報屋が本当に居て、あの炎のメッセージは本物で、しかもその情報屋が俺の受け持ちの生徒だと?

 誰だ、こんな下手な喜劇コメディを書いたのは。もっと現実的な脚本を書いてくれよ。


 半ば放心しかけている俺に向かって柳楽なぎらは片手を胸元に当て、もう片方を天に触れんばかりに大きく広げ、まるで舞台の中心へ躍り出る女優のような清廉さで一歩一歩近づいてくる。


「人を人たらしめるのは『知識』。しかし過ぎた知識はその身を破壊せしめるもの。けれど、それを分かっていても人間は、知りたいという欲求を抑えることなどできない。私はそんな人々の欲望に応える情報屋、『禁断の果実』だ」


 玲瓏れいろうとした声で謳い上げる柳楽の雰囲気は、教室で見るそれとは大きく異なっていた。普段はそれこそ深窓の令嬢みたいにひかえめに笑う。けれど今は、その時の印象とは不釣り合いな、いたずら好きの少年みたいな笑みを浮かべていた。


「さあ、貴君きくんは、どんな禁断の知識を望むのかな?」


 服の裾が触れ合うほど間近に迫り、少女は俺を見上げる。彼女は俺の目の中に何か珍しい物でも見留めたというように、その聡明な色を持つ瞳を輝かせていた。


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