第三話 メッセージを一件
その日の夕方、手早く仕事を終わらせた俺は、山尾の住むアパートまで足を運んだ。適当なスペースに車をバックでねじ込み、
日差しは暑いのにどこか寒々しい古い木戸の前で息をついてから、意を決して呼び鈴を鳴らす。
馴染み深い電子音が外まで聴こえてくる。
「山尾先生、俺です。同僚の
耳を澄ますが、やはり返事はない。そういう予感はしていたのだ。下のポストに一部屋だけチラシの溜まったのがあったから。
山尾は職場だけでなく家にも数日帰っていないようだった。
「教頭になんて言うかな……」
あの爬虫類顔を思い浮かべる。悪い人じゃないんだが、どうにも苦手な人種だ。あまり話しかけたくもない。
胸に溜まった嫌な気持ちをため息に吐き出して、俺は試しにドアノブに手をかけてみた。ホラー映画とかだと抵抗なく開いちゃうんだよな。
「げっ」
ノブを端まで回してゆっくり引くと、中の暗闇を押し広げて扉は開いた。隙間から薄暗い玄関が見えてしまう。鍵どころかチェーンすらかけてない。
……見なかったことにして帰っていいかな。いや、指紋べったり付いちゃったし、それは不自然か。成り行きに任せるしかない。
指に力を込めて、扉をさらに大きく開いた。中は電気がついておらず、どうやらカーテンも閉め切っているらしい。玄関から差し込む光が入ってすぐの台所のシンクを鈍く輝かせる。
どう見ても人がいる気配はない。しかし予想した腐臭などはしなかった。それだけが唯一の救いか。ほっと息をつき玄関に上がる。
以前にも訪ねたことがあること、そして最悪の予感が外れたことで、この時の俺は油断していた。山尾の書置きでも残っていないかと、靴を脱いで部屋へ入ってしまったのだ。
台所を過ぎて障子の張った戸を引く。俺の眼に飛び込んできたのは、一面の紙だった。
「――――っおいおい、気味悪いどころじゃねぇぞ……」
思わず腰が引けて後ずさる。壁にはコピー用紙が隙間なく敷き詰められ、その上から一面を大胆に使った円形魔法陣が墨のようなもので描かれていた。床に散らばった紙にも同様に、模様こそ違えど魔法陣らしきものが一枚一枚したためてある。
冷や汗をかきながら、俺は足元の紙を拾い上げる。赤色が見えて血かと肝を冷やしたがただのインクだった。一枚はやはり魔法陣が書かれ、もう一枚は神社で買えるお札だった。俺も見たことがある。車で山のほうへ三十分ほど行ったところにある
紙の白と墨の黒に時折混じるインクの朱に、つい身震いしてしまう。以前来たときはこんな部屋じゃなかった。神話の本一冊置いてない、中年男の
「これは、
腰を落として紙の海を眺める。数枚を指先でつまんでめくってみるが、それくらいじゃ床が見えない。こんなに書いて、何に
神やら仏やらを信じていない俺は苦笑して部屋を見渡す。一周回って面白い。
手を伸ばして色彩を引き抜く。落下してくる紙束から出てきたのは一冊のピンク色をした大学ノートだった。
よほど使い込んだのか、用紙が波打って膨らんでいる。また中二病臭い魔法陣でも並んでいるのかと開いてみると、そうでもなかった。
このノートは何かを調べた結果をまとめた物らしい。近郊の神社や宗教団体の特徴、成り立ちが丁寧に記されている。『願いを叶える』『退魔』『身代わり』『助けてくれる?』目立つ筆致で所々、そんな走り書きが混じっていた。
「…………」
その筆跡は狂気じみていて、見ていて気持ちの良いものじゃない。数ページ飛ばしてまた開くと、今度は左ページに小さな魔法陣が書かれていた。それも、部屋に散らばる紙に書かれたものとは違う。そっちが西洋風なのに比べて、ノートの方は漢字と梵字が入り組んだ、見るからに和風な体裁だった。
右ページには説明が書いてある。
「『情報屋、よろず相談、真偽不明、近年のみ噂』。なんだそれ。他のと書き方が違うな」
その説明によると、この魔法陣はある情報屋と連絡をとるための手段なのだという。その情報屋は『禁断の果実』と呼ばれる。どんな知恵も思うがまま、依頼者の問いや相談に必ず答える謎の人物……。
「しかし、どんな情報も、か……」
それが本当なら、俺の不幸体質の治し方も教えてくれるのかね。
なんでもその情報屋と連絡をとるには、魔法陣の中央に自分の血を滲ませて呪文を唱えるらしい。
俺はなんとなく、さっき階段で切ってから血が
「………………まさかな」
言いつつ、薬指を魔法陣の真ん中に押し付ける。そして、その上に書かれた一文をぼそりと読み上げた。
「――
俺は神様なんて信じない。自分が不幸体質だから運気の流れなんかは否定しないが、それでも超常現象を妄信しているわけではないのだ。
だからこれは、ほんの遊び心に過ぎなかった。それ以上でも、それ以下でもない、ただの気まぐれ。この異様な部屋の雰囲気に呑まれていたとも言える。
だから決して、本当に何かが起こるとは思っていなかった。
――
「のぉおお!?」
野太い悲鳴を上げてノートを放る。しかしノートは例のページを開いたまま宙に浮いている。なんだこれ、どういうことだ。透明な糸なんか繋いでなかったはずなのに。
逃げることも声を上げることもできずに佇んでその光景を見つめている。ノートから吹き出す風で、床に散らばったコピー用紙やお札たちが嵐のように舞い上がった。
やがてノートはくるくると回転し、最後は火に包まれ、一瞬にして空中で燃え尽きてしまった。
謎のノートは灰も残さず消えた。もう、あれが何だったのか確かめる術はない。
あまりの出来事に放心して立ち尽くす。漂ってくる焦げた臭いだけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。
「なんだってんだよ。ほんと
火は
オレンジの炎が文字の形に広がったのを。
『放課後 屋上へ』
火は、確かに俺へそう伝言を残した。
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